社会人創作者の課題

 お久しぶりです。八代です。

 前の投稿からしばらく空いてしまいましたね。じつに色々なことがありました。
 まず、会社を退職しました。公正さですとか配属ですとか、理由はたくさん挙げられます。いずれにしても、会社を辞めました。
 1ヶ月もせずに転職先が決まったので、さほど苦労はしなかったですが、やはり会社員でない期間というものを経験できたのは、それはそれで有意義だったのではないか、と思っています。留学は少しイレギュラーでしたが、これまでは比較的、普通の社会レールに乗ってきた人生だったので、ここで初めて、自分・哲学者として生きるという感覚をしっかりと持てました。そしてなにより、新作の主人公の身の上がフリーターなものですから、少しでもその境遇に自分が重ねられるようになれたことは、創作にとっても大きいです。

 この土日もつくばに戻って、大学時代の気分を味わっていました。いろいろな悩んだり、研究したり、酒に溺れたり……いろいろなことを思い出しました。私はけっこう自分の大学生活には満足しているので、つくばに帰るとその時代に戻れて、少し幸せな気持ちになります。同時に、また映画を撮りたいな、と思い直します。

 社会人も、けっこう時間があります。もちろん学生ほど融通は利きませんが、その気になればいろいろなことができます。しかし、社会人になって失ったと思うものが、ひとつあります。それは、人間関係の広さです。1日1日、同じ業務をしているひとと大半の時間を過ごすわけですから、当たり前と言えば当たり前ですね。ですが、これは創作者には大きな課題です。自分の”人間像”を広く保っておかなければ、描くキャラクターや物語の世界観も狭まってしまうからです。

 学生時代に戻った、無職期間と働いてからの土日、私はいろいろなひとに会いました。ここで私はまた、幅広い視野を取り戻せたように思います。「アサガオが咲いた日」の登場人物は、どこかへそ曲がりで内気なところがあり、これまでの作品のキャラクター像とはちょっと指向が違います。シナリオだけではなくて、キャラクターの像が、学生時代に戻りながらも社会人が書くシナリオにおいてどう変わるのか、ぜひ楽しみにしていてください。

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