八代翔の哲学ページ

無神論について

神は存在しない、と積極的に主張する立場である。これは「宗教をもたない」という無宗教とは明確に区別される。

しばしば、信仰については個人の問題であって踏み入るべきではない、という主張がなされる。しかし一方で、慣例として宗教的儀式への参加が半ば強制されたり、無関係の人間に突然布教活動が行われたりする。これは矛盾である。宗教人は、自分への攻撃には信仰の自由という盾を使うが、自らが多数を占める場においては自らの権威を自由より重んじる傾向がある。私はこのような腐敗した信仰の自由を野放しにするつもりはなく、あえて積極的に無神論を主張する(むろん、無神論を主張する理由はこれだけではないが)。

存在証明を行うことができない物事について、私たちは信仰をするべきではない。それは未知なる事象への判断停止を促し、最終的には人間知性の弱体化へと繋がっていくことになる。

また、ただ「それを信仰している」という事実のみによって、なんらかの主義主張が尊重されるというのは間違っている。もしそれが認められるのであれば、著者が「神は存在しないということを信仰している」という主張も認められるべきなのだから。

さらに言えば、自身に都合がよい結論を信じるために(もしくは不幸な生涯の上に醸成されたペシミズムを保証するために)、宗教を持ち出すのは愚行である。私たちは私たちに現前する現実に、対立する思想に、正面から立ち向かい、対話を行うべきであり、それこそが私たちを知性的存在たらしめる根拠である。

証明に重きを置く科学自体は信仰ではないのかという問いについてはカール・ポパーの議論を、無神論のさらなる主張についてはリチャード・ドーキンスの議論を参照されたい。著者の主張はおおむね彼らと重複する。重複する主張を引用ではなく劣化した語彙で各個人が主張するのは非効率である。