手品師
プロローグ
いい汗かいたな、なんて、ジジ臭いことは言わないけれど、爽快な気分の練習後だった。一週間後に試合を控え、ピリピリしているサッカー部だけれど、それだけ、質のある練習ができた。だからこそ、今、この上もなく心地よい。
秋の夜空に一番星が光り輝いていた。少しずつ満月に近付いていく月も。河川敷のグラウンドに、ちょっと冷たい風が吹いていた。このごろ少しずつ強まるそれは、ここに集う挑戦者達の頬を打った。
「速くしろ。時間ねえぞ。」
部長の声で悠斗は我に返った。部活動解散時刻はもうまもなくだった。急いで校舎に戻って、道具を片付け、解散会をしなければならない。
「コーン、半分持つよ。」
亮一が手を差し出してきた。
「いいの?」
「おう。」
微笑んでグッドマーク。何気ない動作に、どこか優しさが感じられる、そんな奴だった。
「サンキュー。」
背の高い悠斗でも上半身分はある大きなコーンを半分下ろすと、ずいぶん軽くなったような気がする。身体が浮いているような気分だった。
「急ぐぞ。」
快感を楽しむまもなく、部長に急かされた。たしかに、制限時間は刻々と迫っている。
都内といっても辺境の地である雅町。電灯の間隔が長い夜道は、通い慣れている悠斗達でなければ、迷ってしまうほどだ。学校まで小走りすると、またコーンの重みが肩にのしかかってきた。軽いのか、重いのか、わからないコーンだった。
裏門に駆け込んだ。鋭い目をした夜警の人を一瞥し、まっすぐに体育倉庫に駆ける。暗がりの中にコーンを置いた。体育倉庫の、臭いけれど懐かしいような大地の匂いは、脈打つ悠斗の身体を落ち着かせた。校庭の隅に、サッカー部五七名が群を為そうとしていた。直立する顧問の姿は、部長以上に悠斗を急かした。
悠斗が群衆に紛れてまもなく、顧問が咳払いをした。
「はい。お疲れ様。あと九日で秋大会だ。この期に及んでとやかく言うつもりはない。個人ももちろんだが、チームで勝て!それだけだ。吉報を待つ。
この大会前に悔しいが、明日から三日間、職場体験になる。その間は部活は禁止となっている。」
ガヤガヤと喧騒が生まれた。普段ならよっしゃ、という声の一つも聞こえそうなものだが、大会前、それを喜ぶ部員は皆無だった。悠斗も不愉快だった。一夜漬けじゃないけれど、試合前の練習は非常に重要だ。
「まだ終わってねえ!」
一喝の後、まだ静寂が戻った。もうすっかり慣れてしまった怒声だが、それでもやっぱり気まずくなる。入部したてのころ、それにびびっていた悠斗に、部長が「そのうち免疫ができる」と変な励まし方をしたが、今となってはそれがわかる。
「練習できないのは残念だが、職場体験も活動の一環だと思って、しっかり取り組め!」
「はい!」
慌てたような返事をもって、解散会は終わった。
雅の里
次の日の朝は早かった。
その日から三日間、職場体験期間だった。気が進まない行事ではあったが、好奇心が無いと言ったら嘘になるだろう。
悠斗の体験場所は老人ホームだった。「雅の里」という、学校から歩いて五分もない老人福祉施設だ。あまりにも地元で、“職場”体験とは言うものの、いまいち実感が湧かなかった。一行事、としての高揚が全く感じられない。
晴れているのに、ちょっと暗いような朝だった。文化活動に勤しむのによいとされる、秋―が、こんな冷たい風ばかり吹くのなら、夏の方がいい、と、悠斗は思った。つい数ヶ月前は、秋を恋い慕っていたのに。
いよいよ、施設の入り口に辿り着いた。いくら平静だとはいえ、入り口まで至ると、悠斗もさすがに緊張した。これから八時間近く、ここで働かなければならない。何の経験もなしで、いきなり職場に放られても、どうしようもない。今さらながら、悠斗は憤慨した。
大きな自動ドアを抜けて、ロビーに入った。八時五分。時間ぴったりだった。
だが、受付を見るや、悠斗は目を見張った。誰かしらいるものと思っていたのに、人は皆無だった。。八時五分に館長と会う手筈になっていた。
奥に人がいる気配がないので、声を出して呼んでも無駄だろう。どうしたものか、と低回しているうちに、一〇分になった。授業ではとんでもなく長い時間が、あっという間に過ぎていく。施設では暖房が効いていたが、身体は冷たいままだった。
「おはようございます。高崎悠斗君ですね?」
突然後ろから話しかけられて、思わず飛び上がってしまった。振り返ると、眼鏡を掛けた長身の男性が、こちらを見ていた。
「は、はい。」
返事をしつつ、慌てて胸元の名札を見た。館長らしい。向こうもそちらに気付いたようで、名札をさして、
「館長の森村です。」
と言った。表情も話し方も平坦で、感情が読めなかった。ただ一つ確信したこと。
それは―
この人は絶対、好意的ではない
ことだった。
「これから三日間、ここで職場体験をしていただくことになります。多くの物事に触れて、成長への契機としてください。」
まるでロボットが話しているかのような、平らな話し方だった。
「は、はい。」
先ほどと同じように、悠斗は答えた。
「今、一〇分ですね。」
壁に掛かった時計を見て、森村さんは言った。無感情な言い方が、かえって心に響く。
「すいません。五分に着いたんですが、誰もいなかったんで、戸惑ってしまって……」
「五分ではいけません。」
遮るように、森村さんは言った。
「え……」
「来る時間を指定されたら、五分くらいの猶予を持って現地に向かうようにしてください。今回のような場合にも、落ち着いて考え、臨機応変な対応策を図ることができます。この施設はリハビリテーション病院を兼ねています。そのリハビリの時間ごとに君にも動いてもらうことになりますから、参考にして下さい。」
慇懃無礼な奴だ、と悠斗は思った。このとき初めて、悠斗は心から森村さんを軽蔑した。思春期特有の精神は、わずかな自分の非さえも認めようとはしない。そもそも、人一人も配置していないのがいけないのだ、と。
「は、はあ…」
「それから、返事は『はい』です。これはどこに行っても、常識です。」
「……」
「わかりましたか?」
「…はい。」
歯ぎしりをして、悠斗は答えた。
家の手伝いも、祖父母の介助の経験もない悠斗は、少しばかりの嫌みを言われ、食事運搬の仕事を仰せつかった。
厨房に向かうと、もう料理を載せたワゴンが準備されていた。学校の調理室と大差は見られないが、料理には何一つ、悠斗の腹を満たしそうなものはなかった。老人達はこんな料理で腹鼓を打つのか、と半ば呆れていると、
「早く運んでね。みなさんお待ちよ。」
女看護師が急かした。まったくひどい三日間になりそうだ、と悠斗は溜息をついた。
「はい。」
声を荒げて返事をすると、乱暴にワゴンを引いた。味噌汁が危うく漏れそうになって、余計に腹が立った。
薄汚い職員エレベーターに乗って、三階に着いた。三○一号室に入った。
「こんにちは。」
突然声がした。見ると、白い寝台に老人が横たわっていた。優しそうな目をした人だ。慌てて、会釈をした。
「おや、見慣れない、お兄さんだね。実習生か。」
胸元の名札を見て、老人は微笑んだ。
「はい。職場体験中なんです。」
一時間前に見せられた手順書通り、大きな声ではっきりと言った。老人は深く頷いた。その動作を見ると、緊張していた心が和らぐような気がした。サッカーの練習から帰ってきたような、そんな気分だった。
「昼食です。」
料理がこぼれないように、そっと机の上に配膳した。軽い食品が多いため、なかなか大変だった。
「おいしそうだね。」
老人は料理を眺めて、しわがれた手を組んだ。
「……そうですね。」
悠斗は対応に迷って、病室に目を泳がせた。
「食べるかい?」
「え……」
突然聞かれて、ますます悠斗は慌てた。
「えっと、その、お弁当があるんで…」
「ふふふ。ちょっとからかっただけだよ。ありがとう。」
老人は笑顔を崩さず、楽しそうに敬礼した。
「は、はい。ごゆっくり。」
対応こそぎこちなかったものの、その老人の対応は、悠斗の心を癒した。
全ての病室を回り終えたとき、悠斗は上機嫌だった。多くの患者にお礼を言われ、歓迎された。悠斗自身も、老人が好きだった。博識で、優しく、叱るだけの元気もなく、温厚である、彼らが。
そんな中、ただ一人、そっけない対応を取る者もいた。三○七号室の、山木さんだった。実習生だ、ということも、何も気にしない様子だった。その老女は、当たり前のように食事を受け取り、当たり前のように食し始めた。しかしよく考えれば、それが普通なのだ。単に他の老人達が、親切なだけで。
山木さんはどんな人なんだろう、と考えながら、悠斗は空のワゴンを運んだ。厨房に戻ると、森村さんがいた。
「ずいぶん時間がかかりましたね。」
「す、すいません。」
時間にうるさい人だ、と悠斗は思った。せっかく上機嫌だったのに、一気にどんぞこまで突き落とされたような気がした。この人さえいなければ、もう少し職場体験も楽しいものなのだろうに。
「どうしたんですか。」
「いや、その、みなさんと会話を。歓迎していただいて…」
悠斗は懸命に、純真無垢を装った。もっとも、仕事が始まるまでずっとふてくされた対応をしていたのだから、今さらごまかせるとは欠片も思っていなかったが。
「はぁ…」
森村さんは、深い溜息をついた。今度こそ怒られる、と、悠斗は心のシャッターを閉めた。
しかし意外にも、彼は怒らなかった。それどころか、事態は好転した。
「そうですか。本来はこれから廊下の掃除をしていただく予定でしたが、みなさんとの対談がこなせたのなら、そうしてもらいましょう。みなさんお体が不自由ですから、新鮮な生活ができません。病室を回って、みなさんとお話しをして差し上げて下さい。」
予想外の展開に、悠斗は心が躍った。ずっと立ちっぱなしで、疲れていたのだ。話をするのなら、ほとんど休憩のようなものだ。
「じゃ、お願いしますよ。」
森村さんは厨房の外へと向かった。その後ろ姿が憎らしく思えなかったのは、これが初めてだった。だが悠斗はかえって、自分の単純さにあきれかえることとなった。
最初に向かったのは、三○七号室だった。悠斗自身、理由があったわけではない。けれど、彼女以外の老人達は、当たり前のように自分のことや昔のことを話し出すだろうと、確信があったのだ。でも、山木さんだけは違う。彼女が何を話すのか、全くわからないのだ。学生の知的好奇心は、安全より、未知を選んだ。
「失礼します。」
三○七号室は、少しだけ明るかった。ちょうど午後の陽が窓から差し込んで、秋の寒さなど信じられないというくらい、柔らかい温かさがあった。
「あら、実習生の方かしら?」
ベッドの方を見ると、山木さんは本を読んでいた。分厚い、アルバムのような本だった。
「あ、邪魔でしたね…」
「いえいえ。邪魔だなんてとんでもない。私達の話し相手になるように、頼まれたんでしょう?」
鋭い問いに、悠斗は目を見開いた。彼女の第一印象は、“何も見ていない”だった。それゆえに、巧みな考察でぴたりと事情を当てた彼女に、悠斗は並みならず驚嘆した。
「よく、わかりましたね。」
「……年の功よ。ふふふ。
種明かしをするとね、あなたが出て行ったあと、『彼はどうですか?』なんて館長さんが聞きにいらしたのよ。困っちゃったわ。実習生なんて思ってないもの。板に付いてるのね。」
森村さんは、そんなことをしていたのか。お節介な奴だ。
「いや、館長さんには、怒られてばっかりです。」
言葉にしてしまうと、余計落ち込んでしまった。でもそれで初めて、自分の悩みが一定した形になって、整理できたような気がした。
「厳格な方なのよ。でも、根はとっても優しい人なの。だから、許してあげてちょうだい。きっと、あなたのことが心配でたまらなくて、しのびしのび私達に評判を聞きに来てるんだわ。」
改めて、森村さんの姿が脳裏に浮かんだ。自分が出て行ったあと、患者一人一人に、評価を聞く姿―
「そう…なんですか。」
「ええ…」
いい人なんだな、と思った。突然、悠斗の胸が温かくなった。
考え込む悠斗を、山木さんは微笑んで見つめていた。するとなんだか恥ずかしくなって、悠斗は窓の方を向いた。張り紙が貼ってあるのに気付いた。
「発表会?」
そう書かれていた。みんなの前で、特技を披露する会らしい。
「ああ、それね。ここで老人同士で話しているのも退屈でしょう?だから、たまにそういう発表会をやるのよ。私はあまり見に行かないけれど。だって終わるとき、寂しいんですもの。」
「へえ…でも、面白そうですね。」
まるで、幼稚園や小学校に戻ったような気がした。ここは老人ホームなのに。
「参加してみたら?」
「でも、特技がないですから。」
まさか老人ホームでリフティングなんてできないし…
考え直してみると、悠斗は一つも人前で披露するような特技を持ち合わせていなかった。
「あら、若いんだから。作ればいいのよ。」
山木さんは変わらぬ笑顔で言った。
「作る、ですか……」
「ええ。特技があるのは大事なことだわ。自分の価値を、確認できるから。」
このとき、この発表会が、彼にも、彼女にも、人生の節目となるとは、悠斗は欠片も思っていなかった。
老人達の話を聞くのは決して苦痛ではなかったけれど、全く興味の無いことや、ついていけないくらい昔の話をするのは、なかなか大変だった。時に話題がなくなって、気まずい沈黙が生まれることもあった。楽な仕事だ、なんて思ったけれど、そうでもなかった。
振り返れば、山木さんが一番、話しやすかった。明らかに寡黙そうなあの老女が、一番話が弾むというのは意外だった。だが一つだけ、やっぱり違った。
山木さんは、客観的事実しか話そうとしなかった。自らの思い出、自分の感情、意見―そういったものを、ほとんど口にしなかった。
体験が終わったのは、午後四時。最後、また森村さんと話した。
「今日はお疲れ様でした。ただ、これはあくまで職務の一部です。経験のない中学生にできる仕事はこれくらいですから、お願いしたと言うだけです。決して、勘違いなさらないようにしてください。」
ゆっくりとした、温和な老人との会話のあとにこの人と話すと、よく館長が務まるな、と思ってしまう。平坦で、機械的で、早い口調。おまけに、トゲに充ち満ちている。
でも、ちゃんと見ていてくれたんだよな……
「はい。ありがとうございました。」
悠斗は頭を下げた。応答がないから気になって森村さんを見ると、ちょっと驚いたような表情をしていた。だが、一度瞬きをすると、
「どうも。明日は遅刻のないように。」
と発した。聞き終えるやいなや、コツコツ、と森村さんの靴音が耳響いてきた。
あ、そうだ、と悠斗は思った。
「あっ、森村さん。」
靴音が止まった。
「はい?」
「山木さんって、どんな方なんですか?」
その言葉を聞くやいなや、突然、森村さんの表情が曇った。ガラス張りの壁から差し込む夕日が、余計に影を作った。如実に、空気が変わったのを感じた。今まで苛立ちと呆れしか表に出さなかった森村さんが、暗く、切なげな雰囲気を帯び始める。ただならぬことのようだった。咄嗟に聞いたのを後悔したが、口に出した以上、ちゃんと聞いて、知りたかった。山木さんへの知的好奇心もあったが、それ以上に、彼女のことを館長がどう考えているかが知りたかった。
意外な答えが、返ってきた。
「彼女のことは、彷徨い人、とだけ申し上げておきましょう。」
「彷徨い人…」
思わず悠斗も復唱した。
「世の中に、不条理なことが無数にあることは、君でもよくご存じでしょう。そんな中で、理不尽な運命に打ちのされる人も、枚挙に遑がない。ここには百人を優に超える高齢者がいらっしゃいます。ですから、そういう方も。わかりますね。これは特定の誰かを指す、というよりは、一般論です。」
森村さんのたどたどしい口調が、その事態がいかに重いかを語っていた。
「つらいですね。何十歳にもなって。」
十四歳には、到底理解し得ない。けれど、哀しい気持ちは、十分に伝わっている。
「いえ、何十歳だからこそです。こういう言い方は大変不敬ですが、彼らは、君ほど長い将来をお持ちではありません。。おまけに、身体も弱い。だから、ここにいらっしゃるのですがね。こんな小さな施設に軟禁状態で暮らし、平坦な日々を過ごす。転換期を探すことさえままなりません。
ですから、雅の里はあなたを受け入れました。職場の効率を考えると、実は職場体験というのは非常に損失が大きいのです。ですがそれ以上の価値を君は持っている。新鮮で、活力ある少年が、彼らの下に姿を現す。君のちょっとした行動が、彼らを変えるかもしれない。十四歳の君には、少々肩の荷が重すぎるお願いかもしれませんね。でもどうか、彼らに外の世界から来る、光になってほしい。行く先もわからず彷徨う彼らの道を、照らし出す人になってほしい。そんな期待を、恐縮ながら、我々は抱いています。
どうか、お願いします。今日は本当にお疲れ様でした。」
また、靴音が響き始めた。無人の受付は、ひどく閑散として見えた。
職場体験を不歓迎な森村さんが、甘んじて自分を受け入れた理由―彼の熱意に、悠斗の胸は締め付けられた。老人達の姿が脳裏に浮かび、やるせない気分になってしまう。
雅の里の出入り口を出ると、急に寒気が悠斗を襲った。凍えるけれど、それでいて開放的な、自然の寒さだった。
陽が街の彼方に沈もうとしていた。気怠い疲労感を噛みしめて、悠斗は家路を歩んだ。
あれやこれやといううちに、職場体験も最終日を迎えた。
掃除、配膳、それから挨拶―どれも、決まり切ったことさえ覚えてしまえば、何ら難しいものはなかった。
心残りだったのは、森村さんの期待に、応えきれなかったことだ。話をしていく中で生き生きとしてきたお年寄りは、少なからずいた。けれど、肝心の山木さんは、易々と心を開いてはくれなかった。
最後の一時間は、働かなくていい、と言われた。悠斗は怪訝に思っていたけれど、考えてみれば当然だった。最後は、森村さんと面接をして、評価等を書いてもらわなければならない。
最後くらい優しいだろう、と思っていた森村さんは、最後まで厳しかった。
学んだこと、というレポート欄に「老人ホームの仕事は簡単なものでさえも大変だった。福祉、という、人を助ける仕事というのは、とても大変なのだと学んだ。」と書いたら、森村さんはそれが不服だったらしく、
「君の職場体験はまだ終わっていません。」
と鋭い口調で言った。悠斗も頭の奥に鈍痛がするような、重い怒りを抱いて、
「そうですか。」
と切り捨てるように言い放った。感謝の言葉を言ったときのように、なにか反応があるか、と思ったが、森村さんは相変わらずの表情で、
「はい。」
と、会話に終止符を打った。
そんな森村さんだけれど、別れ際には小さく笑って、
「お疲れ様でした。」
と言ってくれた。何を言う、と怒りたくなったけれど、その途端、悠斗が今までに接した老人達の言葉が思い出された。この三日間で親しくなった老人達は、決まってこう言った。
根は優しい人だから。受け入れてあげて。
たった三日しか共に過ごしていない老人達の言葉だけれど、一応悠斗には大切な人たちだった。だから彼らが認める森村さんも、やっぱり大切な人だ。
「ありがとうございました。何だかいろいろ迷惑をお掛けしてしまって、申し訳ありませんでした。」
ぺこりと、頭を下げた。
「全然迷惑なんてことはありませんでしたよ。とても楽しかったです。こちらこそ、素敵な時間をありがとうございました。」
森村さんの意外な言葉に、悠斗は頭を上げられずにいた。森村さんもまた、頭を下げていた。二人はしばらく、じっとそうしていた。そうしているうちに急に切なくなった。無人の夕方のエントランスで、最後、“ありがとう”を贈ってくれたのが、この人だったからだろう。
館長が頭を上げると、悠斗もそれに従った。
「では。」
館長はさよなら、と手をあげた。別れの言葉が苦しくて、悠斗は無言で頷くと、出入り口を出た。いつもより、風が冷たかった。
止まった時間
一週間後、悠斗は憂鬱だった。
登下校時も、授業中も、寝るときでさえ、悪夢の試合が脳裏に蘇った。
もう少しで、強豪相手に勝てるはずだった。私立A中学校は、サッカー界では関東の暴れ馬との異名を誇る学校だった。奇想天外のプレーで相手を翻弄し、相手と三点差を縮めることがないというほどの。
そんな学校相手に、悠斗達は勝てそうだったのだ。二対二で、こっちの攻撃。ゴール間近だった。守備は手薄なA校だけに、ほぼ確実に狙えるゴールだった。試合時間も三十秒を切り、優勢にほかならなかった。
スローモーションで思い浮かぶ。こちらにパスが飛んできた。守り手の意表を突いた、賢明なパスだった。強がるつもりはないけれど、確実に取れたであろうボールだった。
しかし、悠斗の身体は、悠斗が意図するところとは遙かに異なった動きをした。原因はわからない。緊張なのか、油断なのか。しかしいずれにしても、栄光の球体となるはずだったそれは、悠斗の眼前を走り抜け、相手の足下に収まった。
ぞわっ、と、身の毛がよだつのを感じた。敗北ではなく、失敗への驚き、そして恐怖だった。背水の陣での、オフェンスのA校。手も足も出なかった。いや、出そうともしなかった。ボールが彼らの手に渡った途端、悠斗のチームは、傍観者へと化した。
敗北と、失敗だけではない。仲間達との軋轢への恐怖も、悠斗の心を追い詰めた。
試合が終わってから二日が経った今、まだ誰も、悠斗を責めない。しかし、元に戻ったわけでもなかった。なんとなく、自分を関わるのを、みんなが躊躇しているのがわかった。それが心遣いだとするなら、悠斗はいっそ、一気に罵声を浴びせられる方が良かった。
そんな、もやもやとしている三日目。
昼休みの教室は、午後の日に照らされて、ぽかぽかと温かい。給食の影響もあって、眠気さえ感じてくる。
サッカー部こそ、大会という行事があったものの、学校はまだまだ職場体験モードだった。レポートやら後日談やらで、教室の喧騒は普段の比ではない。教室の窓際では、その体験談をしているのか、人だかりができている。教室のこちら側とあちら側では、まるで別の世界のようだ、と悠斗は思った。
「そう落ち込むなよ。」
と、悠斗の肩に手を当てたのは、やはり亮一だった。
「べ、別に落ち込んでねぇよ…」
もっといい応じ方があるはずなのに、つい突き放してしまう。老人ホームでの対話術だって、肝心なときには、何の役にも立たなかった。
「試合のことだろ。そんなに気にすんなって。」
この言葉が、悠斗をカッとさせた。改めて失敗を他者から指摘されて、無性に腹が立った。わかりきったように…
「お前に何がわかんだよ。いいよな、お前はあんな醜態晒したことねえもんな!」
口調を鎮めるだけで精一杯だった。頭の奥に鈍い痛みがさした。本当に微かに理性が働いて、睨みや拳を緩めようと働いたが、悠斗は憤りを総動員して、それを握りつぶしてしまった。
「お、お前…俺だって…」
パチパチパチパチ
亮一が口を開いたそのとき、窓際で拍手が鳴った。居心地悪そうに、亮一が口を閉じるのがわかった。そう、この瞬間、二人は、一種の社会秩序によって、互いの心を鎮めることを強いられたのだ。
悠斗も半ば彼らを恨み、半ば彼らに感謝しながら、席について教科書を取った。逃げるための配慮だった。亮一と、悠斗自身への。
罵声を浴びせられる方がいい、と思っていたのに、ちょっと指摘されただけで無性に不愉快な気持ちになる。矛盾と鬱に、いい加減嫌気がさしていた。
そして最後、悠斗は再度、今度は好奇心ゆえに、窓際を見た。
冬の陽だまり―そう、教室の中の桃源郷では、シティホールに体験に出た級友が、マジックを披露していた。その道化師は、滑稽さを通り越して、悠斗に軽蔑の念を抱かせた。
家路は寒かった。秋は瞬く間に過ぎ去って、もう凍てつくような風が音を立てて吹いている。夕暮れの細い路地は、その哀愁を失って、悠斗に家への距離がいかに長いかをひしひしと伝えてくる。日向を追うようにふらふらと道を歩むが、その微かな光も、彼が時を経て辿り着くころには、ほとんど失せてしまっていた。
万物が自分をさげすんでいるような気がした。
悠斗はようやく家に辿り着くと、重い倦怠感と戦いながら、ポケットから手と、家の鍵を取り出した。そのとき、ポストに封筒が入っているのを見つけた。広告は毎日わんさと届くが、封筒は希だった。それも、銀行の封筒ではなく、茶封筒である。
乱暴にそれを引っ張り出して宛名を見ると、自分宛だった。
暑中見舞いや年賀状、そして塾の広告。それを除いて、自分に手紙が届くのは、本当に希だった。
差出人は、雅の里だった。
すぐに門扉を開け、自分の部屋に飛び込んだ。封筒の頭を破って、中の便せんを取り出す。時節に合う、雪の結晶の柄だ。
山木さんからだった。
―拝啓 高崎悠斗様
落ち葉が風に舞う季節となりました。高崎様は、いかがお過ごしでしょうか。
まず、お礼を書かせて下さい。数日間もの間、私達の世話をしてくれて、ありがとう。
平坦な日々を送っている私達にとって、あなたの登場は、とても楽しい出来事でした。
初日には、ぎこちない動作で食器を運んでいたのに、最後はすっかり板に付いた、っ て、大評判でしたよ。大成功ですね。
この間のように努力すれば、必ず報われて、成功します。どうか今後も、様々なこと に挑戦していって下さい。
館長さんはといえば、まだまだだ!もっと鍛えてやりたかった!なんておっしゃって います。あの人らしいですね。
とにかく、ありがとう。それだけ伝えたくて、手紙を出しました。あつかましいお願 いかもしれませんが、時間がありましたら、ぜひまた雅の里に遊びに来て下さい。
雅の里一同、歓迎致します。
向寒のみぎり、お風邪にはくれぐれも気をつけて。
敬具 山木幸子―
会いに行こう、と、悠斗は思った。
誰かのために何かをした、自分。努力して成功した、自分。
そういう自分が、数日前、たしかにあった。手紙を読むと、その自分に返った気がした。
山木さんと会えば、そんな自分に戻れるかもしれない。
冬がようやく訪れたその日、青年は、過去への遁走を決意した。
次の日の放課後、悠斗は雅の里へ足を運んだ。
受付には、今や顔見知りになった係員がいた。
「あら。」
彼女は笑顔で会釈すると、素早く入館客名簿を取り出した。私用でここを訪れる人の名前を書き記しておくのだ。悠斗もしばしば受付の手伝いをしたので、よく覚えていた。
ボールペンで名前を走り書きしていると、係員はとても嬉しそうに言葉を連ねた。
「来てくれたのね。よかったわ。あのあと、森村館長ったらずいぶん寂しそうにしてたのよ。そういえばみなさんもね…」
悠斗は、少し違和感を感じた。一従業員としてここで体験学習をしていた。あのときは、あれをやれ、これをやれとすらほとんど言われず、自分で仕事を見つけ、それをやった。呆然としていると森村さんが飛んできて、叱責してきた。午後になると老人達の話し相手となり、最後には挨拶をして出て行く。
しかし、今はお客さん。しかも館内では歓迎され、誰も急かしたり、押しつけたりはしない。仕事をする必要もない。
不思議な気持ちだった。幸せなような、しかし、どこか物足りないような気分だ。ふと、サッカーを辞めたらこうなるのかな、と思った。それもいいかな、と…
向かった先は、三〇七号室。夕日が臨める窓際の寝台に、山木さんはいた。都心近くといえどまだまだ郊外のこの地区では、三階まで行けば、かなりいい展望が楽しめた。地平線が遙かに見え、地上がみな茜色に染められる、そんな展望が。
「誰かしら。」
悠斗の気配に気付いたらしく、山木さんはこちらを向いた。そして皺だらけの瞼を大きく開いて、悠斗を見つめた。しかし、年配者はそう簡単には驚かない。来訪者を確認すると、それはゆっくりと緩められた。
「高崎君ではないの。さあさあ、お座んなさいな。」
山木さんは、パルプ椅子に悠斗を促した。ひん曲がった、座りにくい椅子だったけれど、居心地がよかった。居場所が見つけられたような気がした。
二人は、しばらくの間、夕焼けを見つめていた。静かだった。ちょっと身動きするだけで、その物音が部屋に響いた。
「どうしたの?」
十分ほど経ったとき、山木さんが口を開いた。
そう問われて、改めて、悠斗は山木さんに、これといった用事がないことに気付いた。ただ戻りたかっただけ。ここの敷居をまたぎたかっただけ。
「いえ、ちょっと、いろいろあって…」
「職場体験をしていたときが、恋しくなった?」
「ま、まあ。」
見事当てられて、悠斗は狼狽えた。
「過ぎ去ったことを想うのは、人の本性ですものね。」
悠斗は、山木さんのこういうところが好きだった。説明されないことは、それを求めない。ただただ、言われたことに反応を示す。
「山木さんも、そういうこと、あるんですね?」
悠斗が問うと、山木さんは声を上げて笑った。
「あっはっはっは。年寄りなんてそんなもんよ。ほかになにかするったって、こんなばあさんになにができますか。」
「どんな、思い出ですか?」
悠斗の好奇の目を山木さんは楽しそうに見つめた。
「長くなるけれど、いいの?若者の時間を、奪ってしまって。」
「大丈夫です。」
悠斗は頷いた。すると山木さんは、しばらく目を閉じて、唇を細めた。なにか話をする前の動作だった。
「昔ね、恋人がいたの。もう、四十年以上前のことよ。二人とも、大学を出たばっかりの、新米社員だったわ。役立たずだの生意気だのと罵倒されながらも、必死で生きてた。頑張っても頑張っても、辛いことばかり起こる。鬱病にでもなってしまいそうだった。
私達は、戦争が終わった直後に生まれたから、戦後生まれ、なんて呼ばれてね。ふふふ。でも、変わらないわね。若者を差別する姿は。なんだかんだで、自分が置いていかれるのが怖いのよ。
そんな中でも、彼がいた。大切な人と一緒にいるだけで、鬱憤なんて吹っ飛んでしまった。愛し合えるって、こんなに幸せなんだって思ったわ。辛かったけれど、自由だった。」
いいな、と思った。大切な人、と言われて、咄嗟に友達や、想いを寄せるクラスメートの顔が浮かんだ。
山木さんは続けた。
「彼、本当に山が好きだったの。冒険が好きだ、なんて。崖っぷちを一緒に歩かされたこともあったわ。たまったもんじゃないわよ。あなたに恋人がいたら、無茶させちゃいけませんよ。ふふふ。
でも、愛し合っていたわ。婚約もしていた。といっても、まだ指輪の一つも買ってはいなかったけれど。貧しかったから。それでもたしかに、婚姻届には二人の名前があった。
他人から家族になるまで、あと一歩のところだった。けれど…」
山木さんは、口をつぐんだ。別れたんだろうか。別れさせられたんだろうか。別れざるをえなくなったんだろうか。様々な可能性が、悠斗の頭をすり抜けた。しかしいずれにしても、答とは異なった。流行の恋愛ソングを聞くばかりの悠斗には、あまりにも重い答だった。
「命って、本当に儚いのね。たった一つの事故が、私達を永遠に引き裂いた。ちょっと足を滑らせてね。本当に、ちょっとよ。次の瞬間、彼の姿はなかった。私の心と一緒に、彼は永遠に谷底に眠った。
急いで谷を渡りきって、警察に電話したわ。でもね、時代が時代よ。それに、急流だったし。彼は見当たらなかった。ううん。でも、見当たらなくて良かったのかもしれないわ。見つからなかったから、私の中にある彼は、いつも、あの照れくさそうな笑顔で、こっちを向いているんだもの。
ぶつけようのない怒りと悲しみをもって、私は生きてきたわ。一方で、会社は軌道に乗って、どんどん発展した。私は、かなり豊かだった。幸せじゃない、なんていったら、罰当たりだわ。でもね、私の一番大切な部分は、欠けたままだった。ぽっかり穴が空いたまま。」
「そうだったんですか…」
未亡人。大切な人に先立たれるなんて、想像もできなかった。そんな話をドラマや映画でよく耳にはしたが、こうして眼前で話をされると、その重さと悲痛が、これ以上無いほどにのしかかってきた。
「人って、何にでも慣れると思うでしょ。いや、そうだわ。でもね、大きすぎたの。ちっぽけな私の胸には、彼の死は大きすぎた。
私は、寡婦となった時の心のまま、身体だけが老いていく。時間だけが経っていく。私は、固まってしまった。何も変わらないまま。胸が張り裂けたまま。」
気付けば、夜になっていた。夕焼けの色は地平線に微かに見えるだけ。夜空には星が見え始めていた。
「ふふふ。」
話し終えると、山木さんは笑った。
「何だか辛気くさい話をしてしまったわね。ごめんなさい。いいのよ、そんな深刻な顔しなくても。生きることさえ辛いことが多いのに、過去の悲傷にまで気を配る必要はないわ。年を取るとこれだから。ま、とにかく、高崎君。」
呼ばれて、山木さんを見ると、目が合った。じっとこちらを見ていたのだ。強ばった心が、少しだけ緩むのを感じた。彼女にはそんな力がある。辛かったから、優しくなれるんだろう。
「いろいろあるだろうけれど、頑張ってね。私はいつも味方ですからね。」
家族みたいだな、と思った。
いや、家族のようなら、なおさらなんとかしてあげたかった。山木さんの中の時計を、進めてあげたい。力になってあげたい。
俯いていると、山木さんが髪を撫でた。温かい手だった。
病室を出ると、エントランスへと戻った。
なんとなく外へ出づらかった。そうしたら、なんだか逃げてしまうような気がして。
夜の街灯の光が、ガラスの扉を通過して、薄暗い待合室を照らしていた。森村さんと別れた場所だった。今思えば、彼の一喝なんて、なんでもないようなものだ。
彷徨い人、と森村さんは言った。そう、彷徨い人。
進んでいく時間を受け止められないまま、ただただ不安定な今を低回している老女。その姿は、悠斗の涙を導くには十分だった。
「あんまりだよ。そんな…」
立っていられず、休憩室の椅子に身を預ける。辛い話なのに、山木さんはずっと微笑んでいた。微笑みを作ることに慣れたんだろう。微笑んでいないと、辛すぎるから。
悠斗も、微笑んでみた。ちょっとだけ気持ちが緩んだ気がするけれど、目の奥の痛みが、また悲しみを募らせる。
助けてやりたい。でも、どうしようもない。
そんなときだった。
悠斗の目に、ロビーのある張り紙が飛び込んできた。
発表会の張り紙だった。山木さんの病室に貼ってあったものだ。ふと、山木さんの言葉が蘇る。
―特技があるのは大事なことだわ。自分の価値を、確認できるから―
そうだ。これだよ。山木さんと、これに出よう。そうすれば、彼女は今の自分を、受け入れられるかもしれない。今を生きることを思い出せるかもしれない。
悠斗は涙を拭うと、立ち上がった。そして勢いよく、夜の闇の中に飛び出した。
手品
次の日の昼休み、悠斗は悩んでいた。発表会に出ようと決めたとはいえ、期間は九日。しかも山木さんは高齢者。何ができるだろう。
思索にふけっていると、亮一と目が合った。慌てて目をそらす。亮一もすぐさま目をそらすのがわかった。衝突して以来、ずっとそうだった。自分の非を認め、謝罪する、それだけのことを、悠斗は決して認めなかった。職場体験や試合を通じても、結局何も変わっていない。変わるべきだ、と自分でも思うのに、悠斗は決して変われなかった。
大切なのは、何が起こるかではなく、何を起こすかなのではないか。
いや、だからこそ発表会に出ようとしているのだ。
と思いながら、結局悠斗は、問題を先送りしているのだった。
そういえば、亮一とぶつかったとき、拍手が湧いたな…
自然と教室の陽だまりへと目をやった。あそこで、何をやっていたっけ…
「はっ。」
悠斗はひらめいた。たしかあそこでは、手品を見せていたはずだ。
手品・・・
いいと思った。手法さえわかってしまえば、誰でもこなすことができる。短期間でできる。なおかつ、みんなに楽しんでもらえる。
放課後、悠斗は早速パソコン室に向かった。悠斗は現代っ子ながら、そんなにパソコンは得意ではなかった。キーボードで文字を打つのにさえ悪戦苦闘するほどに。
このとき、悠斗を動かしていたのは、山木さんへの友情だけではなかった。
悠斗は、成功したかった。何かを成し遂げたかった。勉強も苦手だし、サッカーでは大失敗を犯した。完全に敗北者となった彼は、ただがむしゃらに、成功を求めていた。人に認められることをしたかった。
インターネットで検索すれば、手品の手法はいくらでも出てきた。久しぶりに、悠斗の胸に高揚が生まれた。悠斗は手法が書かれたウェブページを印刷すると、それをひっつかみ、雅の里へと駆けた。
「手品?」
山木さんは首をかしげた。
「そうです。手品です。発表会で、一緒にやりませんか?」
悠斗は懸命に誘った。山木さんが動かないことには、何も始まらない。
「いやあ…私はぶきっちょだからねぇ…」
「ほんの退屈しのぎに。ね?」
悠斗がせがむと、山木さんは笑ってOKしてくれた。
「わかりましたよ。でも、手品のやり方は、調べてあるの?」
悠斗は頷くと、印刷した紙を取り出した。
「インターネットで、簡単な手品を選んであります。」
「さすが、若者!」
と、おばあさんとは思えないほど力強い、ガッツポーズをしてくれた。
しかし、寸刻の後、悠斗はもうあきれかえっていた。
最初にやってみた手品は、封筒の中に紙幣を入れ、二等分した後、復元された紙幣が戻ってくるというものだった。
封筒は歪な形に崩れるわ、千円札には明らかな手品の痕跡が残るわで、悠斗はもう唖然としてしまっていた。
「む、難しいですね。ははは。」
おかしさの笑いというより、呆れの笑いだった。
それでも、山木さんは不動だった。
「当たり前よ。みんなができないことをやってのけるから、マジシャンなんじゃない。」
山木さんの言葉は、悠斗の心を励ました。
マジシャン。良い響きだった。
それこそここは老人ホームだ。外国語なんてものとはほど遠い場所で、マジシャン。
心の中でその言葉を繰り返せば繰り返すほど、悠斗は自分が、なにかとんでもなく素敵なことをしようとしているような気がして、胸が躍った。
「そうですね。頑張りましょう!」
誘った方が激励されるなんて全くおかしな話だな、と悠斗は内心苦笑しながら、再び封筒に手をかけた。燦々と窓から降り注ぐ午後の陽は、悠斗の手のひらを照らし出し、柔らかい白さできらきらと輝かせた。
印刷してきたいろいろな手品を一通り試すと、悠斗はもう疲れてしまった。出たごみを処理すると、別の問題に気付いた。
「練習のためには、いろいろものが必要になりますね。」
できるだけものを必要としない手品を選んだつもりだったけれど、思いの外、そうでもなさそうだった。本当は何も消費しないマジックも、練習のときは消費したり。
成功って、甘くないな、と思った。でも、大勢の前でマジシャンとなる自分を思い浮かべれば、決して苦痛ではなかった。
「大丈夫。努力し、助けを求める人には、協力者が現れるものよ。」
山木さんは、封筒の残骸を見て言った。
「協力者、ですか?」
「ええ。ここは狭い世界だけれど、団結力は人一倍あるわ。私に任せてちょうだい!」
ちょっと不思議な気分だったけれど、悠斗は山木さんを信じることに決めた。
一方、学校では試合から一週間が経ち、また部活が始まった。
初の部活動は、想像以上に苦痛だった。誰も悠斗に接しようとはしなかった。しかし、亮一の思いやりのそれとは違って、部活の空気には多少の憤りが含まれていた。自分達の栄光を潰した男への、集団の差別的憎悪が内包されている。
練習中も気怠かった。練習試合ではパスが来ないし、なんとなく部の志気が低い。
孤独な星々が点在している夜空には、欠けた満月が重い光を放っている。ついこの間まで爽快であったはずの場所がこんなにも変わるものかと、悠斗は愕然としてしまった。
重いコーンを一人担いで、悠斗は夜道を走った。悠斗の周りにも、同じように走る部員がいる。いつもと全く変わらない光景なのに、悠斗は四面楚歌になったようだ。せっかくマジックの練習に心をときめかせていたのに、またあの絶望の淵へ追いやられたような気がした。
裏門に駆け込んだ。夜警の人がこちらを見ている。悠斗はふと、孤独を見透かされたような錯覚に陥って、にわかに羞恥を感じた。いつもくれてやった一瞥もできず、目をそらして体育倉庫へ行った。気怠い匂いがした。
解散会のあと、悠斗は思い切って、顧問に言った。
「先生、少し休んでもいいですか?」
「あ?」
無理だろうとは思った。顧問は厳しい人だった。怒声をまき散らし、体罰も躊躇しない・・・よく先生をやってられると思うような人だった。
だが、顧問は悠斗の眼差しを品定めするように見つめると、
「いいだろう。だがなるったけ早く帰ってこい。」
と言って、職員室へと向かった。
誰へともなく、悠斗は頭を下げた。山木さんの―助けを求める人には、協力者が現れる―という言葉が身に染みた。
そんな中、物陰から、一部始終を悲しそうに見つめる者がいた。亮一である。サッカー部の中で、彼だけはただ純粋に、悠斗の休みを嘆いていた。
ただ、友情の名の下に。
「今日は、ずいぶんと落ち込んでいるのね。」
次の日の放課後、山木さんは言った。雨の街を望む、三〇八号室でだった。
「そう見えますか?」
悠斗が聞くと、山木さんは深く頷いた。
「練習を始めてもう四日目ですよ。高崎君の仕草も、だいぶ読めるようになってきました。」
「仕草って、どんな?」
悠斗は思わず首をかしげた。山木さんは手を止めると、悠斗をじっと見つめた。そしてしばらく考えるようにすると、また作業に移った。
「それを言ってしまったら、あなたは感情を塞いでしまうでしょう?」
クスクスと、山木さんが笑った。悠斗もなんだかおかしくなって、一緒に笑った。その声が止むと、部屋には、窓からのざあざあという雨の音だけが聞こえた。永遠と続くその音を聞いていると、自然と心が落ち着いてきた。
「ちょっと、トラブルがあって…」
自然と、声が口から漏れた。心を許しているからだろう。
「悶着かなにか?」
封筒をいじくりながら、山木さんは問うた。その上達は高齢者ながらにしてめざましく、悠斗と競い合えるほどだった。
「悶着?」
「諍いよ。」
「ああ…まあそんなとこです。」
無言の圧力とでも言うべきだろうか。いずれにしても、一触即発の空気であることは争われない。
「仲直り、できないですかね?」
悠斗は俯いた。ベッドの脇の段ボール箱が視界に入ってくる。いったい誰が提供してくれたのか、中には手品の練習には十分すぎるほどの道具が詰まっている。発表会で披露する予定の七つの手品に必要な道具のほかに、ちょっとした衣装まで。
その提供者を、山木さんは決して口外しなかった。ただ、協力者とだけ呼んで、お礼は済んでいるとのことらしい。
「生きていれば、大抵なんとかなるものよ。努力か時間が、解決してくれる。ほら、ご覧なさいよ。」
山木さんの手を見ると、そこでは小さな超常現象が起こっていた。見とれてしまうほどの手際で、手品がされていた。
「すごい!どうやって?」
「コツはね…」
山木さんと競い合ったり教え合ったりして、悠斗はどんどん技術を上げていった。
三日前までど素人だった老婆が、今や老練な手品師となっている。その事実は、悠斗を何よりも励ました。そしていつしか、悠斗は未来に、ほのかな希望さえも抱き始めていた。
いよいよ前日になった。
その日の練習も終わって、病室の窓には見慣れた夜景が広がっていた。七つの手品、全て完璧にこなせるようになっていた。ぎこちない動作が夢のようだ。
それだけ上達していても、やはり悠斗の胸中には一抹の不安があった。万全を期した準備をしても、成功の保証はないということは、悠斗自身よくわかっていた。よく考えてみれば、当然のことである。それを思い知った出来事こそが、手品への挑戦の、原動力だったのだから。
「明日、失敗したらどうします?」
悠斗は尋ねた。それは自分自身への問いでもあった。
「成功するために努力したのに、そんなこと考えてるの?」
山木さんはほくそ笑んだ。さすが不動の人なだけあって、本番前でも冷静だった。どうしてそんなに落ち着いていられるのか、不思議なくらいだった。
「山木さんも、失敗したこと、あるでしょ?」
「そりゃあもちろん。数え切れないほど失敗したし、赤っ恥を掻いてきたわ。人生、失敗の方が多いの。」
「だったら・・・」
「だったら、普段は成功する自分を想像する方が、ずっといいじゃない。」
なるほど、と思った。山木さんは、長い人生の中で、きっと一つの道徳観念を、形成しきっているのだろう。
「そうですね。」
「今日まで、ありがとう。明日は頑張りましょう!」
「こちらこそ。」
青年と老女は、固い握手を交わした。
眩しいほどの朝日と共に、発表会の日はやって来た。
いつもは重い身体が、今日は羽のように軽かった。緊張と躍動感で胸が満たされ、なにか強い力が身体の心髄から沸き立っているのを感じた。頭の中で、何度も手品を再生した。成功するたび安堵し、忘れかけるたび恐怖が襲った。
相変わらず外は寒かった。太陽がまだ地平線に近いので、日陰ばかりで凍えそうだった。大変だったけれど、悠斗はまっすぐ道を歩いた。雅の里までの数百メートルは、まっすぐ、堂々と歩きたかった。
雅の里の外観は、いつもと変わりない。身内同士での発表会だから、特に看板も出さないのだ。いつも通りの朝日を浴びて、いつも通り輝いている。初めて来た時は、なんでもないのに特別な場所に見えた。発表会の時は、いつもと違うのにいつも通りに見える。不思議だった。狭量な世界観に、今さらながら驚いた。
溜息をついて、悠斗は驚いた。息が白かった。冬の到来を、改めて感じた。白い息を見ると、生きていることを実感する。何でもないことに、心が動かされる。
でも、気付かぬ人もいるのだ、と悠斗は考えた。自分達のように、今日という日に胸躍らす人もいれば、いつもと変わらない日常を過ごす人もいる。白い息に感動する青年もいれば、何も感じない人間もいる。広すぎる世界に思いを巡らすと、自分の瑣末さを改めて気付かされる。いや、たしかに全体にとっては瑣末だけれど、個人にとっては大切な人であると、悠斗は今断言できた。それがいいようもなく嬉しくて、悠斗は拳を握った。
入り口付近の広間も無人だった。ただ、椅子の配置が変わっていた。机は全て取り除かれ、講堂のように一方向に椅子が並んでいた。その先には空間があり、横に発表会と書かれた看板があった。
「おはよう。」
老女の声がした。急いで振り返ると、山木さんがいた。エレベーターホールから、軽快な足取りで歩いてくる。動いている姿を見るのは初めてだった。想像よりも生き生きとしていて、悠斗は瞠目した。
「おはようございます。」
慌てて頭を下げた。すると山木さんは細い目で舞台を見た。
「いよいよね。」
「そうですね。」
短い会話でも、たしかな意思疎通があった。二人はたしかに、互いの胸の内に緊張と、躍動とを感じ取った。
「道具とかは?」
悠斗は尋ねた。手品に関することは、些細なことまで何もかも気になった。
「ああ、それはね…」
「ご心配なく。」
聞き覚えのある声がした。いつの間にか山木さんの横に、森村さんが立っていた。山木さんは面白そうに、森村さんを見つめている。
突如、悠斗は懐かしい嫌悪と軽蔑を抱いたが、それはあっさりと引いていった。変わったな、と自分自身で思った。
「おはようございます。」
目が合うと、二人は同時に言った。山木さんはそれがおかしかったようで、一人でクスクスと笑っている。
「お久しぶりです。早いですね。さすが。道具等は控え室にありますので、こちらへ。」
そう言うと、森村さんは舞台(と言ってもただの空間だが)の横にある扉へと向かった。普段そこは職員の休憩場所となっていたが、今日はなりきって、控え室、だそうだ。悠斗と山木さんは、思わず見つめ合って笑った。いつかそうだったように、心がほぐれた。
森村さんが扉を開けると、山木さんはゆっくり中へ入っていった。控え室に入る直前、森村さんと目が合った。真剣な目だった。彼は深く頷いた。悠斗も同じようにした。その瞬間、山木さんの言っていた“協力者”が誰なのか、悠斗はわかったような気がした。
控え室では、余った道具で練習をして過ごした。ちょうどいい空調のはずなのに、暑くなったり、寒くなったりした。山木さんは手を握ってくれた。その手が微かに震えていて、山木さんもやっぱり緊張しているのがわかった。もはや赤の他人には思えなかった。大切な友達だ。生きてきた世界もまるで違うけれど、大切な友達だ。
いよいよ本番になった。
悠斗と森村さんは、ゆっくりと舞台へと出た。拍手が遠く聞こえた。さっきまで無人だったそこには、館中の老人が集っていた。温かい昼の日差しが、広間を照らしていた。知っている顔ばかりで、一瞬ほっとしたけれど、彼らの真剣な眼差しを受けて、悠斗は固唾をのんだ。
「これから手品をやります。成功したら大きな拍手で、失敗したら優しい笑顔でお相手下さい。」
山木さんが言うと、笑いが起こった。上手いな、と思った。場も和んだし、悠斗も余計な力が抜けた。
封筒を出した。続いて千円札を出した。仕掛け済みの封筒だが、相手にはわからない。
自然な動作で、封筒に千円札を入れる。元々切れ目が入って、こちら側に抜けるようになっている。相手には入っているように見える。この動作だけでも、かなり大変だった。
仕掛けをして、鋏を取り出す。封筒を半分に切ると、観客は目を見張った。
「切れてしまいました。これではおまんじゅうが買えません。」
山木さんが言うと、また笑いが起こった。ちょっと驚きを含んだ笑いだった。切れた封筒を振りかざしてみせる。
「しかし、山木さん、呪文をお願いします。」
「はい。」
特に意味の無い言葉を、山木さんが唱え始める。この明らかにわざとらしいへんちくりんな言葉は、山木さんが考えた。どうせ誰もこのせいだとは思わないのだから、呪文はわざとらしい方がいいと。狙いは的中して、また笑いが起こった。
封筒をつなげた。千円札を出す直前、悠斗は山木さんを見た。何もかも成功しているはずだった。けれど、サッカーのトラウマが、最後の動作を躊躇わせた。
山木さんは、顎を動かして、次の動作を促した。楽しそうだった。見ると、観客も面白そうにこちらを見ている。
雅の里が、喜びに満ちている。
大丈夫だ、と悠斗は自分に言った。そして勢いよく、悠斗は千円札を、封筒の口から引き抜いた。
次の瞬間、雅の里は拍手喝采に包まれた。
悠斗は飛び上がりたいような衝動に襲われた。
やった。やりきった。成功した。
山木さんを見ると、ガッツポーズをしてくれていた。悠斗は目でお礼を言うと、もう一度、千円札をかざした。遠くで、森村さんが笑っていた。
発表会は、大成功のうちに終わった。
山木さんにはこれでもかというほどお礼を言われ、森村さんには称賛され、見ていた人々にはタネを教えてとせっつかれた。大袈裟だけれど、悠斗は人生で一番幸せな日な気がした。身体も心も緊張で疲労していて、祭りのあとの静けさなんか、感じている暇も無かった。自分の手で、たしかに成功を掴んだ。そのことは悠斗を、何よりも幸せにした。
再出発
次の日、悠斗は胸を張って学校へと向かった。天気は晴れ晴れとしていた。今まで凍えていた寒さにも、全くひけを感じない。勉強も頑張ろうと思ったし、サッカーも改めて精進しようと思った。確証ある自信は、悠斗を今までよりもずっと、強く、逞しくした。
しかし放課後、担任に呼ばれた。薄暗い応接室に入ると、森村さんがいた。初めて会ったときと同じような、かしこまった表情で、悠斗を見上げていた。目が合うと、小さくお辞儀をした。
彼は悠斗に座るように促した。ふわふわとしてむしろ居心地の悪い椅子に、悠斗は腰掛けた。しかし、昨日はにこやかだった森村さんが、突然また冷然としている方が、ずっと居心地が悪かった。
「昨日はお疲れ様でした。」
森村さんは言った。
「どうしました?」
気になって、悠斗は唐突に尋ねた。
「お知らせすることがありましてね。これから雅の里までご足労願えますか?」
「はい。もちろん。」
悠斗はいち早く部活に出たかったが、それ以上に森村さんが気になった。
二人は雅の里へ歩いた。館外で、二人で歩くのは初めてだった。森村さんはあのしかめ面を日差しに照らされていて、悠斗の目にはまるで別人のように見えた。それがおかしくて、笑いを堪えるのが辛かった。
歩いている間、二人はほとんど話さなかった。いざ話そう、と思っても、特に話題が見当たらなかった。職場体験のときはとりとめもないことをいくらでも話せたのに、今日は何かが違った。
雅の里の扉を通ると、ロビーに入った。数人の老人がくつろいでいた。彼らはこちらを興味深げに見つめていた。
業務用の階段を上ると、三〇七号室の前に来た。森村さんはそこで立ち止まると、悠斗に振り向いた。重い眼差しだった。悠斗はこの扉の向こうに、とんでもなく重要なものがあるのだと悟った。
「辛いとは思いますが…」
そう言うと、森村さんはドアノブに手を掛けた。悠斗は何があっても驚かないようにと、覚悟を決めた。
扉が開くと、悠斗の緊張はほどけた。そこでは山木さんが眠っていた。
なんだ、と彼女に近付いて、悠斗は息をのんだ。まるっきり正気がなかった。見るだけで温もりを感じたあの肌は、やや青ざめていた。思わず触れると、それは冷たかった。気持ちがふわふわした。目の前の現実を、悠斗は受け止めきれなかった。
「つい先ほど、息を引き取りました。死因は不明ですが、おそらく若いときに負った障害によるものと思われます。残念です。」
森村さんが静かに言った。
死んだ。
死んでしまった。
つい昨日まで、あんなに生き生きとしていた人が。
目の前の彼女は、全く動かない。いつものように嬉しそうな目で悠斗を迎え入れることも、悪戯っぽい笑顔を浮かべることもしない。もう二度と、悠斗と楽しく話し合うこともない。その指先で、悠斗を愛でることも、手品をすることもない。
こんなの山木さんじゃない。
悠斗はそう思った。山木さんっだったモノ。山木さんじゃない。
今にも、「冗談よ。」なんて言って、あの扉を開けてくるんじゃないかと思った。
しかし、そんなことはなかった。それは何よりも、森村さんの涙が物語っていた。決して動かないその頬に、一筋の涙が光っていた。
悠斗は初めて、山木さんを直視した。
静かだった。ただただ、静かだった。
共にあった人が、死んだ。
初めて経験する死を前に、悠斗は、これまでついぞ味わったことのない、猛烈な悲しみと喪失感に襲われた。心の中が空っぽだった。なのに、涙だけが溢れ出してくる。視界がぼやけていく。身体も、心も、わなわなと震えた。
脳裏に、生前の山木さんの姿が浮かんだ。初めて話したときの柔らかい笑顔、手品をしながら面白がる姿、マジックショーの前のちょっと緊張した表情…
「うっ…うっっ…」
何もしてあげられなかった、と悠斗は思った。自分は、山木さんに十分なくらい「ありがとう」と言えただろうか。励ましてもらったり、手伝ってもらったり、そんなことばっかりで、何もできなかった。
もしかして、マジックショーが負担をかけてしまったのではないか、という懐疑も頭をかすめた。きっかけこそ山木さんのためだったけれど、欲しかったのは成功だった。そのために、山木さんは無理して…
とめどなく、大粒の涙が流れた。その落涙の温かさは、返って自分の冷たさを思い知らせた。
「な、何にも…」
「はい?」
「何にも、してあげられなかった…」
悠斗は唇をかんだ。叫んでしまいそうだった。狂気に翻弄されて、おかしくなってしまいそうだった。
「大切な人が亡くなると、みんなそう思うものです。」
森村さんはそっとささやくと、悠斗の肩に手を載せた。森村さんにしては、優しすぎるほどの行為だったが、今はそれを払いのけたかった。一人でずっと泣いていたい。しかし、それをする気力さえも、悠斗は持ちえなかった。
「だって…本当に…うっ…うっ」
「…」
静寂が訪れた。自分がなきじゃくる声だけが、部屋に響いていた。
森村さんはじっと山木さんを見つめていた。辛そうだった。きっと、こういう経験を、彼はずっとしてきたのだろう。
悠斗は、自分の弱さを知り、また自己嫌悪に陥った。
「山木さんが―」
森村さんが口を開いた。その声が妙に耳に響いた。悠斗は涙を拭うと、森村さんを見た。ぼやけてくるたびにそれを拭うと、自然と涙が止まった。それがまた申し訳ないような気がして、悠斗はどうしようもなくなった。どうしようもなくなって、森村さんをすがるように見つめた。
「彼女が、あのマジックショーを何と言っていたか、ご存じですか?」
悠斗は首を振った。
「人生で、一番幸せな瞬間だった。そう言っていました。」
…
「君は、若くして事故に遭って以来、苦痛に苛まれ続けていた一人の人間を幸せにしたんですよ。山木さんの笑顔を見ましたか?あんなに楽しそうで、生き生きとした彼女を見たのは、初めてでした。ショーが終わったあとも、またやりたい、と意気込んでいました。何十年も止まっていた彼女の時計が、また未来へと進み始めたんですよ。これがどんなにすばらしいことか。君の動きは十分すぎるほど、彼女のためになったんですよ。きっと、彼女の人生の中で、一番。君は、彼女を大切に思っていた誰もがしえなかったことを、やってのけたんですよ。」
そう言うと、森村さんは小さく拍手をした。そして、涙に濡れた顔で懸命に笑顔を作って、
「本当に、お疲れ様でした。」
と言った。悠斗も必死で笑顔を浮かべた。それでもやっぱり顔が歪んで、変な表情になった。それでも少しだけ、心がほぐれた。山木さんはいつだって笑顔だった。だから、悠斗も山木さんを、笑顔で送らなければいけないと思った。
「ありがとう。」
悠斗はささやいた。山木さんは笑っているように見えた。悠斗が挑戦しているのを見守って、そうしていたように。
職場体験は、終わった。
雅の里を出ると、荷物を取りに学校へ戻った。その途中の交差点で、亮一に会った。
「よう。」
と、彼は手をあげた。
「よう。」
悠斗も応じた。
「みんな待ってるぞ。」
と亮一は言った。失った居場所を取り戻して、悠斗は心がじんわり温まった。
「今から、行ってもいい?」
悠斗は尋ねた。まだ時間はあった。道は陽に照らされて、影に覆われていたその姿を露わにしている。どこまでも続いていそうな、しっかりした道だった。
「もちろん。」
亮一は照れくさそうにグッドマークをした。
「いろいろ、ごめんな。」
悠斗は頭を下げた。
「堅苦しいよ。」
亮一は笑った。二人は照れくさくなって、少し俯いた。
「実を言うとさ、俺達も、悔しかったんだよ。自分が。」
「え?」
亮一は突然に告白した。
「ボールを取られてから、俺達、全然動かなかっただろ。あれ、逃げて、諦めてたんだ。全員で頑張れば、またゴールを狙えたかもしれないじゃん。そこまでいかなくても、ゴールを阻止して、延長戦に持ち込めたかもしんない。それ、諦めたんだよ。そんで全部、お前のせいにしてた。」
そんなふうに思ってたなんて、悠斗は全然知らなかった。また、それについてとやかく言うつもりもなかった。なぜなら、その自責の辛さは、彼自身よく知っていたからだ。
「じゃあ…」
「少しも怒ってねえし、お互い様ってこと。むしろ俺達の方が、謝んなきゃいけないくらいで。」
じゃあ、サッカー部のあの空気は、そんなに顧慮することでもなかったんだ…
悠斗は笑った。これ以上ないくらい笑った。亮一も一緒に笑った。
「これからも一緒に頑張ろうな。冬の練習は辛いぞ!」
「おう!」
二人は拳をぶつけた。
亮一の抱えていたコーンを分担して、悠斗は走った。亮一もあとに従った。
悠斗は茜色に染まっていく大空を見上げた。きっとあの部屋の窓からも、誰かが、同じ夕日を見ているだろう。
山木さん、あなたはたしかにマジシャンだ。
たった少しの間で、あんなに憂鬱だった僕を立ち直らせてくれた。
僕、またグラウンドへ行きます。
また失敗しちゃうかもしれないけど
それでも、僕、グラウンドへ行きます…
厳冬の夕暮れ、二人の青年は、土手へと走っていった。
ふたりの拳には、決して絶えることのない、未来への想いがあった。