その日
五月晴れに新緑が際立つ、土曜日の午後のことだった。
図書館を出たぼくは右腕いっぱいに本を抱えたまま、プロムナードを歩いていた。最近整備された、駅前へ続く一本道だった。風船を抱えた子供とすれ違った。毎週のようにどこかで催されるイベントが、夏の活気を予感させた。
深呼吸をして、改めて本のタイトルを見返した。『コスモス』、カール・セーガン著。天文学史と宇宙の神秘を綴った本だ。ずっと入荷を待っていた。図書館を訪れるたびに要望カードに長々と文章を書き連ね、一年半も待ち続けた。会社の配属が変わって忙しかったころも、図書館に来ることだけは怠らなかった。
改めて嬉しくなって、足取りが軽快になった。ウォークマンがなくても、帰り道が楽しかった。
駅に近づいてくると、通りにひとが増えてきた。静かなビル風が人でごった返した駅前の熱を運んできて、脇道にそれることを考えた―そのときだった。
駅前からこちらに、ひとりの女性が歩いてきた。淡い青色のシャツに、白い帽子が映えていた。優しい風が吹くたびに、黒のセミロングが揺れた。右手に本を抱えているのを見ると、図書館に向かうらしかった。
 
心臓が、どきどきした。ゆるやかだった時間が、唐突にせわしなくなってしまった。
 
すれ違った。
 
手のひらが湿った。右腕に抱えた宇宙の神秘が、ちっぽけに思えた。あのひとのことを知りたいと思った。あのひとに話しかけなければならないと思った。あのひとを好きになるだろう、と強く感じた。
ぼくは、振り返った。彼女も、振り返っていた。目が合った。固唾をのんだ。その瞬間、時空のなにもかもが、安らかな静止を迎えたように思えた。
 
その日、ぼくは運命を信じることに決めた。
「今日だっけ」
「なにが」
「とぼけるんじゃあないよ」
同僚の山崎達也が、ファイルで風を送りながら、からかうように尋ねてきた。
「……そうだよ」
そうだ。今日も、ぼくはあのひとに会う。梅雨明けはまだだが、運良く今日は久々の快晴だった。オフィスの窓は昨日までの大雨が嘘だったように、陽に照らされたビル群を映している。
「なんっていったっけ。名前」
興味津々に達也が尋ねる。さっきまで見積書に向けていた目は、すっかりこちらに向き直っていた。
「篠原。篠原沙織さん」
「うわー。もう語感で勝ってるね。語感で」
“語感で勝ってる”言われてみればそうだ。初めて名前を聞いたとき、きれいな名前だと思った。
この二ヶ月のあいだに、ぼくは二回、篠原さんに会った。我ながら、かなり積極的だったと思う。ナンパなんて一度もしたことはなかったし、合コンに出たこともないほど、ぼくはそういう場面には疎かった。突き動かされるように、ぼくは篠原さんに迫った。そして今日、ぼくは生まれて初めて告白をする。
 
うるさいわりに要領のいい達也に助けられて、久々の定時退社をした。夏至を過ぎたばかりの空は淡いあかね色をたたえていて、満ちかけた月がそのなかで静かに夜を待っていた。
こんなになにかに緊張するのは久しぶりだ、と思った。待ち合わせ場所に向かいながら、ぼくは普段を忘れていた。どんな風に呼吸をしていたのかや、どんな風に歩いていたのか……そういうことがすっかり、頭のなかから消え去ってしまったらしかった。
夕時の押上駅は帰宅途中のサラリーマンで混み合っていた。七夕なこともあって、駅前には笹が飾ってあって、願い事が書かれた短冊が結われていた。ぼくも、とペンを取りかけて、やめた。書いてしまえば、安っぽくなってしまう気がしたからだ。
「遅れてごめんなさい」
篠原さんは五分遅れでやってきた。シンプルな紺のTシャツに、ジーンズ。シンプルな服装で整えるのが得意なひとだった。
「ううん。大丈夫です。行きましょう」
『今来たばっかり』などと言った定番文句を口走りかけて、やめた。
予約した店は、スカイツリーの麓にある洋食店だった。店先にはきれいな黄色い花が咲いていて、待宵草と言うのだ、と篠原さんが教えてくれた。
インターネットで調べたかいあって、店の雰囲気は落ち着いていて、デートにはもってこいだった。橙色のダウンライトが二十席程度の室内を照らしており、古そうなスピーカーからテイク・ファイブが流れていた。
席に着くと、篠原さんはしきりに店内を見回しては、何度も食器を整えたりした。
「どうかしましたか」
「いや、実はこういうお店あまり来たことがないので……」
「そうですか」
緊張しているんだ……これだけ清楚な雰囲気のひとがこの店で緊張していると思うと、そのそこはかとないいじらしさに、ますます彼女が愛おしく感じられた。
篠原さんはオムレツを、ぼくは日替わり定食を注文した。
「外食はあまりされないんですか」
「そうですね……そんなには。ほんとうに図書館のカフェくらいですね」
そう。ぼくらはこれまで二回、図書館の最上階にあるカフェで過ごした。毎週末そこで本を読むのが、篠原さんの習慣らしかった。人の声がすると集中できない性格だったが、それを聞いてぼくも毎週、カフェで本を読むことに決めていた。
運ばれてきた料理は鮮やかな色合いで、篠原さんはなにか尊いものでも扱うようにナイフを入れていった。正解だったな、と思った。
「あちっ」
オムレツを口に入れた篠原さんが、小さく跳ねた。
「猫舌なんですか」
「は、はい」
「ははは」
笑いながらぼくも定食のカツを口に入れた。
「あちっ」
想像以上に熱くて、ぼくも震えてしまった。
しばらく間があいてから、ぼくらは目が合った。そうしてなんだかくすぐったくなって、ふたりで小さく笑った。
 
帰る時間が近づいてきたころ、突然、予報外れの雨が降った。店の窓にポツポツと雨粒がつき始めて、急に篠原さんは慌てだした。
「え、雨降ってきましたね」
「予報では晴れだったのに……まあ梅雨明け宣言もまだですからね」
うろたえる篠原さんに、ぼくは鞄の折りたたみ傘を見せた。
おじいさんになっても、この日は思い出すだろう、と思った。こんなに美しい女性と相合い傘をすることはまずないだろう、とも思った。篠原さんは小柄だったので、傘にすっぽりと入ることができた。仕事鞄が濡れたけれど、そんなこと気にやしなかった。
「七夕なのに雨って、ちょっと悲しいですね」
「そうですね」
「一年に一回しか会えないのに」
「うん。それに、じつはベガとアルタイルってちょっとずつ遠ざかってるんですよ」
「え、そうなんですか。切ないな……」
傘に当たる雨音を聞きながら、ぼくらはいろいろな話をした。星の話や、神話、花言葉の由来なんかも話した。ぼくも篠原さんも話し上手ではないから時々沈黙が生まれてしまったけれど、優しい鼓動が身体のなかで続いていて、それだけで時間が充たされているように感じた。
駅が近づいてきて、まもなく別れの段になった。思い切って、ぼくは名前を呼んだ。
「篠原さん」
「はい?」
突然呼ばれて、不思議そうに篠原さんがぼくのほうを見た。
「ぼくはあなたのことが好きです」
駅前から漏れくる光が、変わっていく篠原さんの表情を照らし出していた。言葉を受け止めるときの目の動きが、唇の動きが、彼女の繊細さを物語った。やがて一筋の涙が、?を伝って落ちていくのが見えた。
「えっと……あの、ありがとうございます。すごく嬉し……」
突然、言葉が止まった。うつむいたせいで表情は夜の闇に溶けていたが、よからぬ気配であることはわかった。動悸が激しくなり、手の平が湿ってくのがわかった。
鞄を持ち直すと、篠原さんはこう言った。
「ごめんなさい」
それから篠原さんが駅前に向かって走り出すまで、ぼくは地に根を張ったように動かずにいた。たった数秒の出来事が、鈍重な色彩でぼくにのしかかっていた。
「篠原さん……」
正直、うまくいくと思っていた。達也だって、そう言っていた。抱え込んでいた期待と興奮が手の平からすっかりこぼれ落ちて、遠ざかっていく足音さえ聞き取れなくなっていくのがわかった。
 
……いや、違う。
 
なにかがおかしい、と思った。気持ちを伝えたあとの篠原さんは、決して嫌な雰囲気ではなかった。図書館で会ったときも、嬉しそうにしてくれていた。それに、プロムナードで会ったときの、あの感覚―
失恋の倦怠をため込んだ足に力を入れて、ぼくは次の瞬間、篠原さんを追って走り出した。一歩間違えば勘違いしたストーカーだろう。それでも、ぼくは走った。若い自分に許した、最大の無反省だった。金曜日の東京は酔っ払った人々でごった返していて、舌打ちをする者もあったが、それでもぼくは走った。彼女の後ろ姿はすっかり見失っていたけれど、なにか大きなものが、ぼくを突き動かしていた。ただひたすら、それに任せて走った。
背広の奥で、息切れを感じ始めたころ……ようやく篠原さんを見つけた。
「篠原さん!!!」
降りしきる雨に負けないよう、叫んだ。篠原さんが止まるのがわかった。水たまりの中を駆け抜けたぼくはひどい姿だったろう。荒い息づかいのなかで、呼び声もかすれていた。それでも、なんとかぼくらは、また出会った。
そこは、ぼくらがはじめて出会った散歩道だった。
雨に濡れた髪の向こうにどんな表情があるのか、ぼくにはわからなかった。それでも、立ち止まってくれた篠原さんに向けて、ぼくは叫んだ。こんなになにかに夢中になることは、もうないと思った。
「わからないです。篠原さんがいま、なにを抱えているのか、わからない。なにに悩んで、どういう生き方をしようとしているのか、ぼくには全然……でも好きなんです。初めて篠原さんに会ったとき、ほんとうにドキドキしたんです。人生で一番……このひとだ、って思ったんだ。だから、もしさっき、一瞬でも篠原さんに迷いがあったのなら、ぼくとのお付き合いを真剣に考えて欲しい。どんなことでも受け止めます。だから……」
吐き出すように紡ぎ上げた言葉を、篠原さんの肩がふさいだ。抱きしめた小さな肩の震えで、彼女が泣いているのがわかった。
「嬉しい……あたしも……あたしもね……」
豊富な彼女の語彙でも伝えきれない何かが、雨の中で伝わる体温を通じて、ぼくに伝ってくるのがわかった。
「大丈夫です。もう、なにも言わなくて……大丈夫です」
そのとき、どんよりと空を覆い尽くした暗雲の向こうに、一瞬、こと座の一等星が輝いたような気がした。
 
そうして、篠原さんは、彩織になった。
その日、世界がちょっとだけ、カラフルになった。
すっかり晩夏になり、駅前も静かになった。プロムナードに吹き付ける風はさわやかなそよ風に変わり、すれ違う人々も老人と大学生くらいになった。数年前のはずなのに、大学が遠い昔のことのように思える。若さに時が過ぎていくのを任せていた時代だ。
「よかったねえ。今度紹介しなさいよ」
電話越しに母さんが言った。彩織と付き合って二ヶ月を経たとき、ぼくはようやく両親に報告をした。
「正月辺りに紹介するよ」
「嬉しいわー。孫の顔がはやく見たいわねえ」
「母さん、それは早いってば」
二十代も半ばを過ぎており、母さんは心配しているらしかった。二人は早婚だから、余計かもしれない。
電話を切ると、ぼくは駅前の喫茶店に入った。達也に会うためだった。あいつはもう先についていて、テラス席の隅っこでコーヒーを飲んでいた。ぼくに気が着くと、遅えぞ、と笑った。
「まだこんなに暑いのに、テラス席かい」
「バカだなあ。いい男はテラス席にしか座らねえのよ」
わけのわからない理屈を言いながら、あいつは店員を呼んでくれた。アイスティーを頼むと、ぼくは席に着いた。
「で、今度こそ持ってきてくれたのか」
「もちろんよ。はい。たっちゃんブレンド」
「ありがと」
あいつお手製のブレンドコーヒーを受け取った。達也が何回も忘れるせいで、休日にわざわざ会うことになった。
「献身的なこったな。今日だっけ」
「そう。また六時に待ち合わせる」
「あー生々しい。それにしてもおうちデートが遅いよな。俺なら初回で抱くけどな」
言われてみればそうだな、と思う。
何回か誘ってみたけれど、篠原さんはこの二ヶ月、やんわりとぼくのアパートに来ることを拒んだ。何度も誘うのも下心がありそうだし、結局延びてこの日になった。
「あの童貞臭い奴が、って同期のあいだでも話題になってるよ。まあ、ちゃんと避妊はしろよな。家庭を持てる年収じゃねえもんな」
「うるさいわ……調子に乗りやがって」
達也は持ち前の要領のよさで、異例の昇進が決まっている。来年には確実に、達也に敬語を使うことになるだろう。
雰囲気を察したのか、達也は言った。
「なあ、会社では無理かもだけどさ。こうやってこれからも、ダラダラ遊んでくれよな」
「ああ、もちろんだ。でもおごれよな」
「現金な奴だな。そこだけ先輩扱いかい」
さみしがり屋なあいつは、ほんとうは昇進なんか望んでいないんだろう。独身貴族、という言葉にもっとも似合うのは、達也なんじゃないか、と思った。
 
彩織は珍しく定刻通りにやってきた。あとから知ったことだが、彩織には遅刻癖があった。それでも許せてしまうキャラクターが、彩織のずるいところだった。
「今回はちゃんと定刻に着いたね」
「嫌味だなあ。亮輔だって遅れたことあったじゃん」
「ごめんごめん」
すっかり日が短くなって、カーディガンを羽織った人々が町を行き交っていた。図書館なこともあって休日出勤の彩織は、フォーマルなスーツをまとっていて、真面目な雰囲気もあいまってほんとうに美しかった。ナンパされたりしないかな、と不安に思うこともある。「こいつはぼくの彼女だぞ」と声を上げて走り回りたい衝動に駆られることが、時々ある。
「今日はお邪魔します。これはお土産というか」
渡されたのは、ちょっとしたお茶菓子だった。
「わっ。いいんだよ。そんな……彼女なんだし」
「一応礼儀かな、って思って」
所々に育ちのよさを感じさせられて、ぼくはなんだか自信を失うのだった。
アパートまでの道を手を繋いで歩くと、いつもの道ではないみたいだった。道中、彩織はいろいろな花を教えてくれた。ネリネ、ミセバヤ、ベラドンナリリー……知らない名前ばかりで、彩織の目には世界にはどう映っているのだろう、と思った。
「ぼくのアパート、結構ぼろっちいけど、許してね」
「いいよ。それより、いきなり襲ったりしないでね」
「しないしない」
襲いたくない、と言えば嘘になるけど。それより、彩織がやっとぼくを信頼してくれたのが嬉しかった。
前夜に渾身の清掃作業をしただけあって、彩織は家に入るときれいだね、と言ってくれた。ぼくはなんだかわくわくした心地がして、早速、彩織の好きなコーヒーを準備した。キッチンに立ちながら、つかの間見える玄関に並んだ靴が、幸せそのものみたいに思えた。
ぼくらはそのまま、料理をして、映画を観、読んだ本の話などをした。達也のコーヒーは、とても好評だった。
「びっくりした。亮輔あんまりコーヒーとか飲まないと思ってた」
「ふふふ。そう思うでしょ?」
どや顔を決めると、疑うように彩織はぼくを見回した。
「ひょっとして、友だちかなにかに選んでもらったんでしょ」
「バレたか」
「最初からそう言えばいいのに。嬉しいよ。それでも」
彩織のくしゃくしゃの笑顔をいまぼくだけが見ている。二人だけの時間が、ゆっくりと流れた。
彩織がシャワーを浴びているあいだは、ぼくの心臓は高鳴りっぱなしだった。彩織の優しい匂いがバスルームから漏れ出てきて、いっこうに本のページは進まなかった。
彩織のパジャマは、レモンイエローのシンプルなものだったけれど、無警戒に開けられた第一ボタンから除くうなじは、これまでの人生で見たもののなかで一番艶やかなものだった。
「かわいいね」
「やめてよ。恥ずかしいなあ」
突然静かになった。鈴虫の鳴き声だけが部屋に聞こえていて、それ以外は世界はすっかり止まってしまったかのようだった。初めて会った日と同じだった。彩織はくすぐったそうに笑うと、ぼくの横に座った。「好きだよ」と言うと、「あたしも」と彩織は言った。
そうしてぼくらは寄りかかって、初めての口付けをした。柔らかい感触のあと、彩織の瞳が揺れていた。十センチもない距離で、彩織の息づかいがあった。
抱いてもいいか、と尋ねた。すると、彩織は首を振った。
「ごめん」
「いや、いいんだ」
「嫌なわけじゃないんだよ。ただちょっと調子がよくなくて……水もらえるかな」
キッチンに向かって立ち上がりながら、正直やっぱり、ぼくは落ち込んだ。期待がなかったと言えば嘘になる。あのまま彩織の肌に重なりたかった。もっと激しい接吻をし、夜のとばりに包まれたかった。初めて来た日だから、仕方ない、と割り切った。
水を持って行くと、彩織は鞄から薬を出して飲んだ。
「風邪薬?」
「うん。季節変わりに弱いんだよね。ごめん」
「いや、いいんだ。無理しないで」
彩織は、体が弱かった。告白した日に雨に濡れたら風邪を引いたし、たしかに彼女の言うとおり、気候が変わるときはいつも風邪を引いた。
「体壊したら、頼っていいんだからね。料理も栄養のあるもの考えるし」
彩織は、風邪を引いても絶対にぼくに頼らなかった。
「ごめん。あたし、不器用なんだ。そういうの」
彩織は、ひとに頼るのがとても苦手だった。それでも、この日だけは、彩織はひとつだけお願い事をした。
「うつるほどじゃないからさ、今夜、よければ……添い寝してくれるかな」
ぼくは黙って、部屋の灯りを消した。
 
翌朝、ぼくらは上野の美術館に出かけていった。企画展に彩織の好きな画家が来るらしかった。
「体は大丈夫かな」
「うん。よくなった。ありがとう。亮輔のおかげだね」
そう言うと、彩織は手を繋いだ。その日は久々の暑い日で、どこからやってきたのか、上野公園ではセミが鳴いていた。九月の日差しが彩織の白いシャツを照らしていて、緊張して手を握ると、彩織も握り返した。
「夏みたいだね」
「うん。やっぱり夏が好き」
「ぼくも、夏が好きだ」
そのとき、まるで世界で夏が好きなのが、ぼくらだけのような気がした。そうしてかけがえのない秘密を、二人で分かち合っているような気分だった。
「好きだよ」
とぼくは言った。
「照れくさいよ」
と彩織は返した。
その日、ぼくらはいつもより少しだけ、繋いだ手を大きく振って歩いた。
 
……彩織の秘密を知ったのは、それから三ヶ月後のことだった。
僕らが付き合いだしてからまもなく半年が経とうとする、クリスマス前のことだった。彩織に贈るプレゼントを探しに、ぼくは町に出ていた。
駅前商店街もデパートもすっかりクリスマスムードで、各所のスピーカーからは聖歌やラブソングが流れていた。おそろいのマフラーをした恋人たちが寄り添って町を歩いていて、彼らの吐く息はやわらかい白に変わり、冬の寒気に溶け込んでいった。
プレゼントはマフラーにしようか、などと迷っていたとき、ふとぼくは雑踏のなかに、彩織の姿を見つけた。白いロングコートに青のマフラー、小柄な体にセミロング……一目で彩織だとわかった。今日うちを出たときの服装だったからだ。
プレゼントを買うところを見られたら台無しだ、と隠れようと思ったとき、ぼくはふと思った。
 
今日は彩織の出勤日じゃなかったか。
 
そう。だから今日、プレゼントを買い出しに出たのだ。だが、彩織は図書館ではなく、駅前にいる。
「なんでだ……」
ほかの男と会うんじゃないか……一抹の不安が頭をよぎったが、すぐに打ち消した。彩織はそういうことができるひとじゃない。
しばらく迷った末、ぼくは彩織のあとをつけることに決めた。人並みをかき分けて少しずつ、確実にぼくは彩織に近づいていった。彩織の足取りにおかしなところはなく、むしろ慣れ親しんだ道のりを行くかのようだった。それでも、小柄な彩織がクリスマス前の人混みをかき分けていく様子は、どことなく不安なものでもあった。遠くから見る彩織は、とてもちっぽけで、今にも消え去ってしまいそうだった。ぼくは必死で、彼女を追いかけた。
駅前通りから外れて地元の高校の裏道に入ると、人影は急に少なくなった。空高く晴れた日だったが、その通りには日の光が入らず、薄暗かった。どこかへの近道だろう、と思った。ぼくは見つかってしまわないように、用心深く彩織を追った。なにかパンドラの箱を開けてしまうような、そんな予感がしたからだ。
曲がりくねった道を、十分ほど進んだときだった。彩織は大通りに出た。国道沿いの道で、会社や塾のビルが建ち並ぶ、この辺りのメインロードだった。彩織が左に曲がると、すぐにぼくはそれを追った。ビル風が冷たく、車の音もうるさくて、決して気持ちのいい場所ではなかった。
ほどなくして、彩織は左に曲がり、白い大きな建物の入り口に向かっていった。近づいてみるとそれは、見上げるほど高いビルだった。そしてその最上階の看板には、信じられない文字が記されていた。
「大学病院……」
思わず声が出た。あっ、と思ったときには、遅かった。十数メートル先に、涙ぐんで振り返っている、彩織の姿があった。
「亮輔」
掠れ声で彩織はぼくの名を呼んだ。ぼくは答えることができなかった。ぼくらの間に横たわっている空気は、それだけ重くのしかかっていた。
「か、風邪だよな。そうだよな」
ようやく絞り出した言葉とともに、ぼくはゆっくりと彩織に近づいていった。一歩一歩が、何千キロにも感じられた。彩織は微動だにすることなく、ぼくの動きを眺めているようだった。
「……なにか、病気、なの」
問いかけると、彩織は小さく頷いた。一筋の涙が淡い青のマフラーに落ちた。
「ごめんね……隠してて。今度、今度話すから」
そう言うと、彩織は病院のエントランスに駆けだしていってしまった。追いかける気力もなく、ぼくは長い時間ずっと、そこで患者たちが入れ替わっていくのをひたすら眺めているだけだった。
 
彩織に次会ったのは、クリスマスイブだった。ケーキを焼くために早起きしたけれど、気分は決していいものではなかった。半年間付き合ってきた彩織のことが、すっかりわからなくなってしまったように思えたからだ。だから、彩織が家に来たときのぼくの態度は、ことに邪険なものだった。
彩織は、十分遅れでぼくのアパートにやってきた。
「遅いよ」
オーブンレンジの様子を見ながら、ぼくは冷たく言った。正午のことで、ぼくはすっかり機嫌が悪くなっていた。
「ごめんごめん。電車が混んでてさ」
「混んでたら遅れるの。いつも遅れるよね、彩織」
「ごめんなさい」
彩織の声が落ち込むのがすぐにわかったけれど、ぼくにはどうしようもなかった。そのあとも、彩織は食材を冷蔵庫に入れたりしながら、ぼくの様子をうかがっていた。ぼくは、彩織に甘えていたと思う。彩織が隠し事をしていたのにつけこんで、不機嫌を持て余していたのだ。
スポンジは上手く焼けて、彩織と飾り付けをした。大学時代に絵を描くサークルにいたこともあって、彩織はデコレーションが上手だった。彩織の指先がケーキを華やかにしていくのは、見ていて心地がよかった。よかったからこそ、このクリスマスに乗り切れない気分が憎かった。
六時になったころ、ぼくらはディナーを食した。「メリークリスマス」と彩織が言った。「メリークリスマス」とぼくも返した。
「付き合ってそろそろ半年だね」
「うん。あっという間だなあ」
「社会人になってから、急に時間が経つのが早くなったよね」
「わかる。そうだね」
途切れ途切れの話題が進んだ。お互いがその話題を避けるかのように、いろいろな話が切り出されたけれど、十時を回るころ、ぼくはついに我慢ができなくなった。
「ところでさ、こないだの話なんだけど」
唐突に、ぼくは切り出した。
「……うん」
彩織は細々と答えた。
「彩織が病気なら、それをちゃんと言って欲しいんだ。ぼくは彼氏だから。彩織にできることはしてあげたいし」
「ありがとう」
言葉を絞り出すと、彩織は深呼吸をして、ケーキの残りにフォークを入れた。彩織が買ってきた、赤色の蝋燭が皿に横たわっていた。好きな色を、おととい、聞かれていた。
「でもね、亮輔。亮輔にできることは、ないんだ。そういう病気なの。今まで黙ってて、ほんとうにごめんね」
テーブルの食器をしきりに整えながら、彩織は言葉を続けた。
「命に関わるとか、そういうものじゃないんだ……だから」
「はっきり言ってくれ。なんの病気なの」
たぶん、その日最初に目が合った瞬間だった。彩織は覚悟を決めたように再び深呼吸をして、姿勢を正した。LEDの蝋燭が照らし出した彩織の表情は凜としていて、ぼくのこれまでの動揺がすべて消し飛ばされるほどだった。
彩織の口から出た病名は、信じがたいものだった。
 
「私ね、エイズなんだ」
 
えいず、エイズ、AIDS
 
同じ言葉が、頭の中でぐるぐると回った。コウテンセイメンエキフゼンショウコウグン、とか言ったっけ。保健体育の授業で習った。
性病、だよな。
彩織は、エイズ、なんだ。
へえ、彩織が。エイズ。
 
「どうして……黙ってたの」
考えが落ち着いてきたころ、ぼくは改めて問うた。
「言えないよ。そんなこと」
「彼氏じゃん」
「そうだけど」
「そうだよ」
「今まで飲んでた風邪薬って、その薬だったの」
「うん」
「そっか」
そうだったんだ。彩織はずっと、嘘をついてたんだ。
彩織への恐怖が、しだいに膨れ上がってきた。得体の知れない何者かを見るように、ぼくは彩織の表情が曇っていくのを見ていた。
「言いたかった。けど言えなかった。私がエイズなことを知ったら、亮輔はどんな顔するんだろう、って。怖くて」
彩織の目から、大粒の涙があふれ出てきた。
「いいよ。別れても。イヤだよね、エイズなんて。騙しててごめん……でもどうすればいいかわからなかったんだもん。本には気をつけましょう、って書いてあるだけで、私がどうすればいいかなんて、全然……ほんとは、亮輔にちゃんと話したかったんだよ。亮輔に抱かれたかった。怯えずに亮輔と付き合いたかった。でも、でもね……」
「うるさい!」
次の瞬間、ぼくは怒鳴っていた。頭のてっぺんと瞼の奥が熱くなっているのがわかった。いまは、なにも聞きたくなかった。
なんで、エイズなんだ。昔はビッチだったんじゃないのか。彩織、お前はいったい何者なんだ。どこで生まれて、どう生きてきたんだ。誰の子供なんだ。誰と関わったんだ。
疑念がふつふつと沸いて、ぼくの頭を支配していった。彩織の泣き声と遠くのクリスマスソングが耳に入ってくるすべてだった。
「……今日はお互い、ひとりで過ごした方がいいと思う」
彩織がそう切り出したのは、十二時を回ったころだった。
「寒いよ。外」
「わかってる。でもまだ、終電間に合うから」
「そっか」
止める気も、なかった。ぼくはすっかり思考に疲れ果ててしまって、ソファに身を預けながらからっぽの皿を見つめるだけだった。
「あのね、今日も、遅れてごめん。でもね、今日は、亮輔のクリスマスプレゼント探すためだったの。これ」
彩織は鞄から箱を取り出すと、それを開けた。中から出てきたのは、小型の家庭用プラネタリウムだった。彩織は電池を入れると、部屋でそれを灯した。
「ほら、きれいでしょ。オリオン座……あの赤いのがベテルギウスだって、亮輔教えてくれたよね……ほら、流れ星も流れるんだよ……それから、それからね……」
言葉に詰まった彩織は、鞄を取ると、立ち上がって玄関に向かった。十二月の寒気が外から部屋に流れ込んできた。「メリークリスマス」という声が聞こえてから、しだいに足跡が遠ざかっていった。
そのあいだじゅう、ぼくはずっと、天井に移された星々を眺めていた。そうだよ。あの星がベテルギウス。もう存在しないかもしれない、冬の一等星なんだ。
「こら、正月くらい帰ってきなさいよ」
母から電話がかかってきたのは、それから一週間が経ったときだった。その間ぼくと彩織のLINEは、まったく動かずにいた。
「ごめん」
会社の新年会帰りのことだった。酒を飲まされたぼくは酔っ払いながら家路を辿っていた。
「まったく、親不孝だなあ。ときに、彼女とはどうなの。正月に紹介してくれるって言ってたじゃない」
あ、そんなこと言ったっけ。タイミングが悪い、としか思えなかった。付き合って半年でこんなことになるとは、あのときは思ってもいなかった。いまだに信じられていない。
「喧嘩しちゃってね」
「あら、どうして。どうせあんたが身勝手なことしたんでしょう。何があったの」
何も知らない母さんは気楽でいい。
「彼女がね、ずっと秘密にしてたことがあってね。それで」
「そんなの女の人にはいくらでもあるわよ」
「え、そういうものかな」
「そう。女の子っていうのはあんたなんかが思ってるよりずっと秘密の塊なのよ」
「そっか」
そうかもしれないな。母さん。
だが、この言葉を言うと、母さんの声色は変わった。
「彼女、病気だったんだ」
「えっ」
「病気」
しばらくの沈黙があってから、母さんは尋ねた。
「どんな病気なの」
言ってしまおうか、迷った。どう表現すればいいのか、わからなかった。どこまで告げるべきなのかも、わからなかった。
「それがね、簡単には治らないというか……普通の風邪とかじゃないんだよね」
「はっきり言って。なんの病気なの」
聞き覚えのあるセリフが、母さんから漏れてきた。言いよどむぼくに容赦のない言葉。自分もそうやって彩織を追い詰めていたんだな、と思う。
親だし。もう言ってしまおう。
「彼女ね、エイズなんだ」
「……」
電話口の向こうが、すっかり静かになった。
「もしもし」
「別れなさい」
母さんから返ってきたのは、思っていたより冷たい言葉だった。
「別れるべきだと、思うの」
「ええ。女の人ならたくさんいるから、ね。もうしちゃったの? だとしたらすぐ病院に……」
必死にキーボードを叩く音が聞こえてきた。
「まだしてないよ。大丈夫」
安堵のため息が聞こえた。母さんに言ってよかった、と思った。自分が正直に考え始めていた可能性を、母さんの口から言ってもらえたからだった。そして、それに対する思いも。
「別れたくは、ないんだよね」
「あんた、なにを言ってるのかわかってるの。大変よ。伝染(うつ)っちゃったら」
「そう思うよなあ」
正直、エイズにはなりたくなかった。それが正直な気持ちなのだ、と話していて思った。それでも、ぼくは彩織のことが好きなんだと思った。別れを薦める母さんに、にわかに憎しみがわくくらいには。
「いっときの感情に流されて一生病気を背負うことになるかもしれないのよ。結婚するかどうかもわからないひとに」
"結婚するかどうかもわからないひと"、そう思われていることが悲しかった。
「母さんにはわからないんだよ。彩織がどういう存在なのか」
「じゃあ、あなたにエイズになるときの気持ちがわかるの」
痛い言葉だった。わからない。母さんにぼくの今の葛藤がわからないように、ぼくは彩織の気持ちや、実際に伝染したときの自分の気持ちなんてわからないんだ、と思った。思い思いに、ぼくらは勝手に言葉を交わし合っている。
「しばらく考えてもいいかな」
「わかった。でも結論が出るまでは、そういうことはしないで。約束」
「うん。正月にごめんね」
「いいのよ」
母さんは大人だな、と思った。ぼくはただひたすら黙ったまま、彩織を追い詰めるだけだった。
正月の東京は毎年静かだ。からっぽになった駅前通りが、みんなの故郷がここではないことを思い知らせてくる。彩織は、今頃静岡に帰省しているのだろうか。そこで別れる意思を固めているかもしれない。
道ばたに咲いた名前も知らない花を見ながら、ぼくはアパートに帰った。久々に片付けでもしよう、とキッチンに立ったら、達也のブレンドコーヒーがあった。部屋には、付けっぱなしのプラネタリウムも。
生活のそこかしこに、彩織の影があった。彩織のアパートにも、ぼくの影があったはずだ。置き忘れた本やパジャマ、セイロンティーに、貸してたCD。彩織はそれを見て、なにを思っていたろう。
ダメだ。
どうすればいいのかは、わからない。でも、ぼくは彩織を傷つけた。このままじゃダメだ。もっと、彩織を知らなければいけない。
ぼくは久しぶりに、彩織にLINEをした。すぐに既読がついた。返信が待ちきれず、通話ボタンを押した。
「彩織?」
「亮輔。びっくりした。明けましておめでとう」
「明けましておめでとう」
そうか。年が明けたときは、明けましておめでとう、だったな。
「近いうち、会えるかな」
「うん。明後日には東京に帰るから。嬉しい」
「クリスマスは、ごめんな」
彩織が息を呑むのが、スマートフォン越しにもわかった。思い出したくない記憶にしてしまったろう。
「いいよ。わたしも、びっくりさせちゃってごめん」
「……わからないんだ。どう向き合えばいいのか。でも、彩織のことをもっと知らなきゃいけないと思うんだ。だから、えっと、その、次の通院は、一緒に行ってもいいかな」
とっさの、思いつきだった。それで病気のことがわかるわけではないだろうけれど、彩織の気持ちを知る、契機にはなるだろう。
「ふふっ。いいよ。あ、ただ……」
「うん?」
「お父さんも、一緒。二月」
彩織の、お父さん……
 
その日、ぼくの心臓は一段と高鳴った。
決算期も近づいてきた二月半ば、会社もいよいよ残業が増えてきた。帰る時間は身にしみる寒さになっており、この季節ばかりは、時折、東京にも雪が降る。彩織は東京に来てようやく雪を見るようになったと言う。
次の日の朝に病院に付き添うことになっていたため、ぼくは早めにぴりぴりした職場を後にした。エレベーターに乗ったとき、懐かしい人物に会った。
「よう、亮輔」
達也だった。
「チェスターコート、似合わねえな」
「そこそこいいの着ないとバカにされちゃうんだよ」
達也はそう言って笑うとボタンを押した。がちゃんと音を立てて、二人を乗せたエレベーターは動き出した。
「元気だったか」
「元気もなにもあったもんじゃないよ。周りおじさんばっかり。バレンタインはおっさんの接待で終わりそうだよ」
「そ、それはつらいな」
ため息をつくと、達也は様子をうかがうようにぼくを見てきた。
「ちょっと老けたな。フられたか」
「そんなわけないよ」
彼の洞察が怖くて、目をそむけた。たぶんそこまで見破られているだろう。
「ははーん。ちょっと一悶着あったな」
「一悶着とか言う言葉、同世代で使うやつ初めて見た」
「話をそらすなよ、まったく。ちゃんと教えた通りつくってるのか。まずいコーヒーでも出したんじゃないの」
「そんなんだったらよかったけどな」
「そんなんとは失礼だな。テーブルのシミで別れるカップルだっているんだからな」
「マジかよ」
テーブルのシミで、と笑いかけて、やめた。本人たちにとっては重要な問題なのかもしれない、と思う。
皿洗いの当番が深刻な問題なひともいれば、エイズが日常であるひともいる。物事の重みとはひとそれぞれなのかもしれない。
「なあ、達也」
「あ、なに」
「ひとって、ひとのつらさとか理解できるのかなあ」
エイズにならなきゃ、彩織の気持ちなんかわからないかもしれない。
茶化されるかな、と思ったら、達也は真剣な答えを返してきた。
「理解なんかできるわけないじゃん」
「え」
「感性も、経験も違うんだから。俺たちができることって、相手の感情とか状況を慮って、必要なことをすることだけだと思うよ」
「慮る、とかいう言葉を使うやつも初めて見た」
「おっさんと関わると語彙がおっさんになるんだよ。ああ、もう着いちゃった。またな」
エレベーターの扉が開くやいなや、達也は飛び出して、ゲートにつけていたタクシーに乗り込んでいった。ぼくはその後ろ姿を見ながら、達也の言葉について考えていた。
 
病院に行く日は、一段と寒い日だった。正午を過ぎたころから予報外れの雪が降って、昼下がりの東京を白く染め上げていった。東京の電車は、雪に弱い。ぼくの乗った電車も、五分遅れで駅に着いた。
ひとの親を待たせられない、と十五分前には病院に着いたが、彩織たちは、もっと早かった。エントランスに白のロングコートを認めたときの、ぼくの驚きようと言ったらなかった。その隣に、長身の男性を見つけたときも。
「はじめまして」
ぼくが近づくとすぐに、彩織のお父さんは頭を下げた。ぴっちりと決めたスーツに、濃紺のネクタイが映えていた。分厚い眼鏡のレンズから、ぼくを見る目が光っていた。
「初めまして。長谷川亮輔です」
「篠原彰夫です。彩織がお世話になってます」
彰夫さんの隣で、彩織が戸惑っているのがわかった。ぼくもひとのことを言えた立場じゃなかった。さっきから手の平はずっと湿っているし、視線も狂いっぱなしだった。彼女の、父親だ。このひとに認めてもらえなければ、彩織との将来にも直結することになる。
彩織の動揺に気づいたのか、彰夫さんは笑顔になった。
「安心してください。怖いひとじゃないですから」
そう語りかける声が低く落ち着いた声で、ぼくは改めて身震いした。
「ほら、もうその辺でいいでしょ。行こ」
彩織の声かけで、ようやくぼくらはエントランスに向けて歩き出した。
「長谷川さんは、おいくつなんですか」
「彩織……さんと同い年です」
「彩織、でいいよもう」
居心地悪そうに彩織は言った。
彩織は病院の機械にカードを通すと、機械から印刷された番号札を受け取って、エレベーターホールに向かいだした。彩織の手慣れた仕草に、病院とは無縁だったぼくは不思議な感覚を覚えた。前を歩いて行く彩織が、異世界への案内人のような心地さえした。
四階で降りると、ぼくらは内科の方向に向かった。性感染症は特別な科があるのかと思ったが、この病院では内科の担当なのだという。四一三と書かれた部屋の前に着くと、近くの椅子に、ぼくらは並んで座った。
「あそこの液晶に番号が出たら、入っていくの」
と、彩織は部屋の隣の液晶を指さした。なるほど、と思った。むかし風邪をこじらせたときに耳鼻科に行ったときと同じシステムだった。
何人かの患者が入れ替わっていくのを眺めながら、ぼくらは無言だった。彰夫さんが時折、ぼくの職業や趣味を尋ねたりしたが、それきりだった。クリスマス以降、何回か彩織と会ってはいたけれど、ぎこちない雰囲気はそのままだった。
十五分ほど経ったときだろうか。ようやく彩織の番号が出た。一緒に行くのか、と思ったら、「待っててね」と彩織だけが部屋に入っていった。ぼくは、彰夫さんと二人きりになった。
「彩織からは、いつ聞いたんですか。このことを」
最初に口を開いたのは、彰夫さんだった。
「去年のクリスマスでした。当時はびっくりしちゃって」
「……無理もありません」
彰夫さんは静かに笑った。ほんとうは優しい人なのだ、と思った。
「あの、聞いてもいいですか」
「はい」
「彩織は、どうして病気になってしまったんですか」
ずっと疑問に思っていたことを、ぼくはようやく口にした。だが、彰夫さんから返ってきたのは冷たい答だった。
「それは、彩織と時間を送っていくなかで、聞いてみるのがいいでしょう」
彰夫さんはそう言うと、廊下を行き交う患者のほうに視線を向けた。背の曲がった老人から、大学生らしき男までいた。それぞれの物語があるのだろう、と思った。
「わかりました」
知るのはだいぶ先になるかもしれないし、知ることはないかもしれないけれど、彰夫さんの言葉は、なぜかすっと胸に入ってきた。
「私からもひとついいかな」
「はい」
彰夫さんは廊下に目線を向けたまま、尋ねた。
「君は彩織のことが好きかい」
予想外に直球の質問に、ぼくの体温がかっと上がるのを感じた。照れくさくなって、ぼくは笑いそうになってしまったけれど、彰夫さんの語調は落ち着いていて、真剣に聞いているのだと思い、姿勢を正した。
「はい」
そう、だから困ってるんじゃないか。
「嬉しいよ。長谷川くん」
「え」
「娘を好きになってくれて。君は堅実そうだし、私は彩織の見る目を信頼している。だから、彩織の親としては、こんなに嬉しいことはない」
彰夫さんはそう言うと、改めてぼくを見た。眼鏡の向こうの瞳は、優しいものに変わっていた。
「ありがとうございます」
そう言うと、なんだかくすぐったくなって廊下に目をそらしてしまった。
「ただ―」
「はい」
「私は……」
彰夫さんがなにか言いかけたとき、液晶の数字が消えた。部屋の扉が開いて、元気な顔の彩織が出てきた。
「なにも問題なかったよ」
「よかった」
彰夫さんは、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「じゃあ、長谷川くん」
「え」
突然、彰夫さんがぼくを手招きした。
「おいで」
彰夫さんはそう言うと、部屋の扉を開いた。行ってらっしゃい、と彩織が言って、ぼくの背中を押した。ぼくは導かれるままに、彰夫さんと部屋に入った。
部屋の中は明るい八畳ほどの空間で、壁沿いにベッドが、そしてすぐそばにコンピューターの置かれた机と椅子があって、そこにひとのよさそうな女医さんが座っていた。女医さんは「こんにちは」と挨拶をすると、にっこり笑った。
女医さんに指されたベッド脇の椅子を取って、ぼくは彰夫さんと一緒に座った。
「娘は問題ありませんか」
「はい。大丈夫です。薬もきちんと飲んでくれているようですよ」
そう言うと、女医さんはぼくに目をやった。
「あなたが、亮輔さんですか」
「え」
「娘さんから話は聞いています。お付き合いされているそうですね」
「は、はい」
彩織は、この女医さんになにを話したのだろう。女医さんの表情は柔和な笑みを浮かべたままで、真意はわからなかった。
「正直、エイズ患者と付き合うことに、戸惑ったりはされませんか。必要ならば血液検査もできます」
「あ、まだ、その可能性はないので、大丈夫です」
そう言うと、女医さんは小さく声をあげて笑った。そして、紳士ね、と言った。これが素の笑顔なのだ、とわかった。
「でも、いずれは」
「そうですね」
「今日はそれについてご説明するために、お忙しい中、お呼び立てしました。これをご覧ください」
そう言って、女医さんはキーボードを打った。液晶画面に、さまざまな薬品の写真と、その右隣に名前が表示されていた。知らない薬ばかりだった。
「これは、なんですか」
「抗エイズ薬の一覧です」
そう言うと、女医さんは画面をスクロールした。めまぐるしい速さで、薬が画面を走った。
「たくさんあるでしょう」
「は、はい」
これだけの薬を医者が把握していること自体が、驚きだった。少なく見積もっても、数十種類はあった。
「このなかにはね、性交渉をする際に服用するものや、出産のさいに投与するものもあります」
「え……」
そんな薬まで、あるんだ。
「ですから、医者として、性交渉や出産に関して、感染する可能性を極限まで落とすことはできます。ですから、お気軽にご相談くださいね。それをお伝えしたくて」
女医さんはそう言うと、ぼくの目を見て、深く頷いた。
「しかし」
彰夫さんが、続けた。
「確率は、ゼロにはならない」
彰夫さんがその言葉を漏らすと、女医さんの表情は曇った。ぼくは固く拳を握りしめながら、それを見守っていた。
「はい。ゼロにはなりません。ですから、最終的には、長谷川さんのご決断になります」
ぼくを見つめる医者の表情は、真剣なものに変わっていた。
「ぼくの、決断……」
「はい。一度かかると、病院に通うお金もゼロではありませんし、薬の服用も避けられません。それはご承知ください。エイズは不治の病です」
「はい」
不治の、病――重い言葉だった。
「だから、先ほど言いかけたことだが」
彰夫さんは、低い声で、しぼりだすようにこう言った。
「私が君の親なら、交際には反対するだろう」
そのとき脳裏を横切ったのは、電話越しの母さんの声だった。
「そうですね。親御さんの理解も重要だと思います。苦境もあると思います。でも」
キーボードを叩きながら、女医さんは続けた。
「きちんと治療を続けた場合、エイズで即亡くなる確率はほぼゼロです。エイズはもはや、死の病ではありません。これほど治療法が研究されている病気もまれです。私はね、長谷川さん、篠原さん」
「はい」
「医療の発達にともなって、人間はウイルスから逃げ惑うのではなくて、一緒に生きていく、そういう時代になってきてると思うんです」
女医さんの目は、真剣だった。
彰夫さんの目は、こころなしか、潤んでいるように見えた。
 
エントランスを出ると、痛みさえ感じる寒気が身を包んだ。彩織は、彰夫さんと買い物に行くと言った。
「それじゃ」
「はい。また」
そう言うと、ぼくは二人と別れた。国道では車が轍にしがみつくように列をなして走っていた。雪はもうすっかりやんで、雪かきをする人々も見えた。
目に、焼き付いていた。病院の表示板、女医さんの表情、茶色の障害者手帳や、彰夫さんの目……ひとつひとつの姿に、自分の選択になにがのしかかっているのか、ようやく思い知らされたように思えた。
「亮輔!」
不意に、後ろで彩織の呼ぶ声がした。振り返ると、息づかいの荒れた彩織が、下手っぴな走りでぼくに近づいてくるのがわかった。雪で転びそうになりそうで、危なっかしかった。
彩織は、片手に紙袋を抱えていた。
「どうしたの、彩織」
「あのね、渡すの忘れてて」
そう切り出すと彩織は、ぼくにその紙袋を渡してきた。
「え」
「チョコレート。手作りだから、味の保証はできないけど」
「あ、そうか。今日は……」
紙袋を受け取って中を見ようとすると、彩織は手でそれを止めた。
「やだ。いま中を見ないで。手紙とか入ってるから、恥ずかしい」
彩織は目をそらしながら、「好きよ」と言った。白くなったぼくらの街で、薄桃色の?が愛おしかった。
「ありがとう。ぼくも……んっっ」
言いかけたぼくの唇を、彩織の唇がふさいだ。
そうしてぼくらは、抱きしめ合った。ぼくらを包み込むように、また粉雪が東京を包んでいった。彩織の髪の匂いがした。なぜだろう、思い出すのは五月のあの日だった。
「父さんが、待ってるから」
そう言うと、彩織は駆けだしていった。白いもやのなかに彩織が消えていくのを、ぼくはずっと眺めていた。
その日、ぼくは、ようやく達也の言葉の意味がわかったような気がした。
温かくなった街に桜色が際立つ、土曜日の午後のことだった。
図書館を出たぼくらは右腕いっぱいに本を抱えたまま、プロムナードを歩いていた。
「読み切れないかもね」
と、彼女は笑った。そうかもな、とぼくも笑った。
深呼吸をして、改めて本のタイトルを見返した。『花物語』、吉屋信子著。テーマの花と少女のハーモニーを綴った本だ。ずっと入荷を待っていた。あの図書館は、希望が反映されるのが遅すぎると、つくづく思う。
改めて嬉しくなって、足取りが軽快になった。「速いよ」と彼女は言った。
駅が近づいてきたとき、道の脇に小さな青い花が咲いているのを見つけた。
「忘れな草って言うんだよ」
と彼女は教えてくれた。
花をめでる彼女の赤いワンピースに、花の淡い青が映えていた。春の風が吹いて揺れるセミロングが、彼女をいっそう愛おしくさせた。
心臓が、どきどきした。このひとのことを好きなのだ、と強く感じた。
「きれいな名前だね」
とぼくは言った。
「うん。きれい」
と彼女は返した。
 
その日、ぼくは運命と向き合うことに決めた。
 
あとがき
 
二千十六年三月の末、ぼくはハンブルクを歩いていた。北ドイツの三月はまだ春と言うには寒く、人々はまだ分厚いコートで身を包んでいた。
五十ユーロ札を右手に握りしめたぼくには、ある目的地があった。それは、レーパーバーン、ヘルベルト通り。「飾り窓」と呼ばれるドイツ一の風俗街だった。その程度は、子供と女人は入場を規制されているほど。
留学当初でひと恋しさに震えていたぼくは、そこでブロンド美女を抱くことを考えた。昨夜もその通りを歩いたぼくは、あの美しいブロンドを抱けるのかと思うと、それは胸が躍ったものだ。
乏しい語学力も、性欲を前にすると恐ろしい成長をするものである。嬢との交渉はスムーズだった。しかし、その最中、ある不安がぼくの脳裏をよぎった。
ビョーキだった。
もし、性病に感染したらどうなるのか。
ヨーロッパ有数の風俗街――口が裂けても衛生的とはいえない。きちんと装用すればごく低い確率になるとはいえ、そのリスクはけっしてゼロにはならない。
ぼくは、ヘルベルト通りを去った。
五十ユーロはブラームス交響曲のCDになった。ケルン行きのICEでそれを聞きながら、ぼくはあることを思った。
自分が好きになったひとがビョーキだったらどうするだろう。
そのときに、この物語のシナリオが、稲妻のように降ってきた。保健の授業では注意喚起がなされるだけで、実際に性病患者と交際するときの「答え」などは提示されない。もし、実際にそうなったら……一般に想起される性病のイメージが、純愛物語のなかでゆるやかにその姿を変えていった。
それから一年が経ったころ、ツイッターで友人がこんなアンケートを取っているのを見つけた。「『私このひとと付き合うことになるな』という予感がして、実際にそうなったことがあるか」。過半数が「はい」と答えていた。個人がツイッターで実施したアンケートでありデータとしてはいい加減極まりない代物だが、それでもぼくはこの結果にいたく感激した。そしてある種の信仰的な、「運命観」というものが現実味をもってぼくに差し迫ってきた。
このふたつの出来事が重なったとき、ぼくはこの四年半放り出していた、長編作品の筆を執ることに決めた。
映画引退以降、制作から退いていたぼくにとって、この作品は難産だったと言っていい。物語を書くのはほぼ二年ぶりだった。学内の文芸賞に出そうとしたが、筆はいっこうに進まなかった。しかし、それこそ運命のような、書かねばならぬ、という意識がぼくを突き動かした。
病院のシーンは、とくに思い入れの強いシーンだ。医者の最後の台詞を導くために、一心不乱に筆を進めた。私自身が咀嚼機能障害四級で障害者手帳を持っていたため、ここのリアリティはひとりの作者として以上の矜恃をもって書き進めた。このシーンを書き終えたあとは、ぼくは流れるように小説を結末まで結びつけることができた。山場だったのだ、と今になって思う。
この小説は、各部が「その日」から始まる一文で終わるように構成した。それは、ひとりひとりの人生が、歴史が、大きく変わった一日だけで語られて欲しくない、という思いからである。日常の細やかな出来事が、ひとりの人生の選択に大きく影響しているのだ。
もしも、先述のような運命観が真実であるならば、ハンブルクでぼくの目が潤んだその日や、この小説を書いた日々、そして今、誰かがこのあとがきを読んでくれているこの瞬間も、奇跡的ななにかに繋がっているのかもしれない。
それがとても幸せななにものかであることを祈って、この作品のあとがきとしたい。