再出発
優香が、殺された。パニックを避けるためか、担任の芳美先生は他界の旨だけを、学活で短く伝えた。でもクラスの中に、他殺を疑わなかった奴はいないだろう。彼女は、二人目だったから。
優香は俊治の他に、友達すらいなかった。彼女は優しい子だけれど、もの静かで、外見もいい方ではなかった。俊治が男友達に優香のことを話しても、みんな関心を寄せない。みんなによれば、容姿端麗で明朗快活な子が、好意に値する相手なのだそうだ。
別段、彼女になにか問題があったわけではない。休み時間も、給食のときも、本を読んでいる。それだけ。でもそれはみんなと違うから、誰も近寄らない。にこやかに話し、他の人にのらなければ、その人はクラスの中で、普通の人にはなれない。優香は、忌憚なく言えば、異端の人だった。
それだけ疎まれていたから、クラスでは俊治も、彼女と離れていた。優香の方から、離れるよう言ってきたのだ。仲間はずれと付き合う奴は同じ運命になる、それが学校だから。最初は躊躇ったものの、俊治の方も最終的には、彼女の自己犠牲的な優しさに甘えてしまった。だから二人の恋仲は、誰も知らなかった。
先生も、親も、そういうのはだめだという。みんな平等で、助け合わなければならないから、と。それでも直るわけなんかない。“仲間はずれ”と“友達がいない”は似ているから。彼らもみんなに、友達になれ、とは言えない。授業参観でニコニコ笑っている三〇数名は、等価で平等に見えて、決してそうではない。みんなむりやり自分の名札を付けられ、自分の集団と過ごし、またニコニコして帰って行く。“楽しい奴”や“かわいい奴”と同じように、優香には“仲間はずれ”という名札が当てられていた。でも、それは不定形なものだから、誰にも、どうしようもない。そんな不穏で陰湿な差別の対象が、殺された、優香だった。
その日の放課後、芳美先生に呼ばれた。職員室の奧の、応接室。問題を起こすか、起こされるかしなければ、生徒には永遠に無縁の場所だ。普段の俊治なら愚痴の一つでも垂れそうなものだが、今はむしろ大歓迎だった。異常事態というものは、俊治の死の思考を、妨げてくれるからだ。
応接室は、クッション入りの肘掛け椅子が数台に長机が一つの、殺風景な部屋だった。取り調べでも受けるかのようだ。椅子に腰掛けたが、クッション椅子は身体になじまず、かえって不安定な感じがした。
机の向かいの先生は、疲れ切った目で俊治を見つめてきた。生徒が二人も他界すれば、無理もない。だが俊治自身にも、気配りする余裕はなかった。
「俊治君、どうか気を落とさないでね。親友だったんでしょう?」
親友、そうだった。先生にとっても、お互いの保護者にとっても、二人は親友だった。
「はい。でも、大丈夫です。」
同情するような先生の目から逃れるように、俊治はそっぽを向いた。わかるわけがない。恋人と死別した、中学生の気持ちなんて。にわかに沸いた怒りを彼女にぶつけたかったが、それだけの気力もなく、俊治はじっと唇をかんでいた。
その姿を見ると、先生はそれ以上は言及せず、ただ一言だけ言った。
「優香のお母さんが会いたがってるよ。今日にでも会いに行ってあげて。」
俊治は無言で頷いた。遺族と会うなんて、嫌だ。嫌に決まっている。けれどそれは、“親友”として避けて通れない道だった。
優香の家に寄るために、学校帰り、商店街を歩いた。優香が死んでも、街の喧騒は変わらない。賑やかで、懐かしいような響きは、相変わらずここにある。当たり前だけれど、凄く違和感があった。学校は、吐き気がするほど重苦しい空気で充ち満ちているのに、この世界には異様なまでに何の変化もない。
一方、俊治の方には変化があった。商店街が、ひどく薄っぺらなものに見える。もやができたように、その街はぼんやりとしている。目が濁ったのだ、と俊治は思った。ずっと涙を耐えていた。そのせいで悲愁を洗い流すことができず、ついには目が、それで汚れきってしまったのだ、と。茜色のその世界は、いつもより、重く、暗かった。
洋服屋さんを横切った。刹那、俊治の脳裏に、優香の姿が浮かんだ。ガラスケースに飾られたペンダントに、目をキラキラと輝かせる姿だ。俊治が買おうよ、と言うと、慌てて手を引いて紳士服コーナーへ向かった、彼女。
もう、いないんだ。
大好きだったあの少女は、十四歳で死んだ。
突然に、俊治の心を絶望感と虚無感、そして底知れぬ悲しみが襲った。俊治の心が優香の死に直面したのは、これが初めてだった。ずっと閉まっていた心のシャッターが緩み、開け放たれたのだ。
そっと手を繋いで、恥ずかしそうに微笑んでいた優香。遊園地ではしゃぎ回って、俊治を振り回した優香。ファーストキスの感触に、困惑していた優香。その優香は、もういない。
あのときすぐにでも、ペンダントを買ってあげればよかった。ためらいがちにじゃなく、強く抱きしめていればよかった。学校でもどこででも、もっと時を共にすればよかった。優香の声を聞き、笑顔を見つめて―
次々と後悔が生まれては、俊治の胸を締めつけた。
耐えられない、そう思った。俊治は必死で溢れ来る感情を振り切り、優香の家へと駆けた。
家に着くと、優香のお母さんは笑顔で迎えてくれた。不気味なくらいに溌剌としていて、娘に死なれたなんて嘘のようだった。最初は信じられなかったけれど、まだ受け止め切れていないんだと悟ると、納得がいった。だいぶ痩せたようにも見える。これからじわじわと、この人は蝕まれていくのだろう。
正直、俊治は心配していた。優香の両親は衝突が多く、一年くらい前にはついに離婚している。そんな家庭環境だから、寡黙で思慮深い優香の性格が形成されたわけだ。
しかし今、優香のお母さんは一人っきりだ。最愛(だった)の人と別れ、ただ一人の娘とも死別した。その傷の深さは計り知れない。
リビングに招かれ、座るように言われた。背もたれに寄りかかっても、応接室と同じく、全く楽になった気がしない。優香の部屋へと続く廊下も、使われた気配のない台所も、明かりが消されて真っ暗だった。リビングの柔らかい電灯だけが、静かに灯っている。こんな閉塞感に満ちあふれた場所で、この母親は過ごしているのだ。俊治は急に、彼女の笑顔が怖くなった。
「辛いでしょう?優香の生前は、ありがとうね。親友でいてくれて…もの静かな子なんだけれど、俊治君が来ると、人が変わったように楽しそうに笑ってたわねえ。俊治君のおかげで、あの子も元気にやってたんだよ。きっと。」
いたわるように優香のお母さんは話した。遺族に慰められるなんて、情けない気分になる。と、同時に、俊治は自分に与えられた役目が、この人の聞き役であることを察した。理不尽な欲求に憤りを感じたが、“親友”なのだから、と必死で自分に言い聞かせた。いい受け答えが見当たらずに押し黙っていると、優香のお母さんは続けた。
「あの子、他に親友いないし、本当に、俊治君が心の支えだったんだと思うよ。ありがとうね。本当に、ありがとう…ウッウッ…」
優香のお母さんの目に、涙が光り始めた。それを見ているのがあまりにも苦で、俊治はうつむいた。自分でも驚くくらい、気持ちが重かった。この人の気持ちを理解することも、癒すことも、俊治には到底できない。その無力感だけでも、俊治の心には大きすぎた。
それを感じたのか、優香のお母さんは慌てて涙を拭うと、また口を開いた。
「ごめんなさいね。実は、渡したいものがあってね。」
「渡したいもの、ですか?」
俊治は首をかしげた。写真か、形見のなにかか、様々な想像が脳裏を巡った。
「そう。優香の机の上にね、俊治君への、プレゼントがあったの。」
そう言って優香のお母さんが取り出したのは、赤い包装紙で包まれた、小さな箱だった。俊治宛ての手紙もついている。
すぐに見当がついた。あと二日で、付き合って一周年だったのだ。俊治自身も、ペンダントを準備してあった。今も鞄の中にある。そんな矢先、あの事件が起きたのだ。きっとずいぶん前から、ちゃんと用意してあったのだ。本当に、優しい奴…
急に切なくなって、涙がこぼれた。上手に結ばれたリボンの上に、その滴がしたたり落ちる。どっと押し寄せる悲痛の波に、胸の奥のなにかが張り裂けた。抗いようもなくて、声を上げて、しばらく泣いた。優香のお母さんは、その間、ずっと髪を撫でていてくれた。もう優香のこと以外、なにも考えられなかった。苦しいだけだとわかっているのに、思い出したくもないのに、胸の奥では彼女の姿が浮かんだまま、消えようとしない。
もう出て行ってくれ。頼むよ優香!
心の中で、声がかれるくらいに叫んだ。なんの因果で、こんな残酷な仕打ちを受けなければならないのだろう。世界中で最も不幸な人物を挙げるとしたら、今俊治には、それは自分以外にいないように思えた。
泣くだけ泣いて俊治が落ち着いてくると、優香のお母さんは、微笑んでこう言った。
「ありがとうね。そんなに悲しんでくれるのは、俊治君だけよ。」
諦めきったような、哀しい口調だった。
俊治は顔を上げた。やっぱり、気付いていた。
そう、みんなの反応は、実を言うとかなり少ない。人が人だから、きっとみんなにとっては、「優香が刺された」ことより、「女子中学生が刺された」ということの方が、驚嘆するべき出来事なのだろう。それに加え、二人目なのだ。一人目の健介が刺されたときは、みんな彼を憐れんだし、戦慄も走った。けれど優香の場合はむしろ、彼女でよかった、というような安堵さえも見え隠れしていたのだ。
知っているよ、とでも言うように、優香のお母さんは頷いた。
「みんな、前ほど関心がないみたい。芳美先生だって、とても冷静だった。そりゃそうよね。二人目だし、健介君と優香は違うもの。優香は、その…友達が少ないし。」
割り切るように、優香のお母さんは言った。違う。優香は、仲間はずれなのだ。優香のお母さんもまた、それを知らない。その方が断然いいのだけれど、なんだか人を騙してしまっているようで、俊治は気が咎めた。
しかも、仲間はずれは、死んでも孤独なままだった。それだけじゃない。その母親まで、こんな寂しい思いをしている。切り捨てるだけ切り捨てて、プライベートでだけ親しんでいた。クラスメートとしても、優香の彼氏としても、俊治は忸怩たるものを覚えた。
この人に、自分たちの恋仲を話したら喜ぶのだろうか―ふとそんなことを考えた。少しでも、優香の孤独な死を、和らげてあげたかったのだ。
でも、すぐやめた。秘密を道具にしてはいけない。
「変な話よね。同じ中学生が死んだのでも、そのとき次第で、変わって映ってしまう。命の価値って、なんなんだろうね。」
嘆くという風でもなく、優香のお母さんはつぶやいた。噛みしめるような感じだった。これではいけないと、俊治は口を開いた。
「でも、僕は優香さんが好きでした。だから、優香さんはとっても大切な人でした。僕たちにとっては大切で、いい奴だった。それでいいと思います。」
本当のことだ、と思っている。でも、真意がこもっていなかった。慰めるための、表面的な言葉だ。言葉も、ここではただの道具に過ぎなかった。
それがわかったのかどうかは知らないけれど、優香のお母さんは「ありがとう」と言ったっきりなにも口にしなかった。了解も、同意もない。俊治もそれっきりなにも言えなくなってしまった。秒針が、二人の時間を追い抜いて、カチカチと進む音が聞こえた。
自分の家へ帰る途中、公園に寄った。まっすぐ家に帰る気にはなれなかった。辛いのももちろんだが、家に帰れば、母親がいる。勉強しろ、だの、何時までに帰れ、だのと自由を束縛する母が、俊治は大嫌いだった。好きにさせて欲しい。また、その感情を反抗期とかいってひとくくりにする奴も嫌いだ。わかったような口を聞いて、わかりきったように笑いかける大人共が、一番嫌いだ。十四歳の心は、妥協も非も決して認めない。自分の境遇もわかるが、精神的に独立した人間であることを、俊治はただひとえに認めてもらいたかった。
ゆえに、今、俊治に居場所はなかった。
家も嫌い。学校も嫌い。もっとも、俊治だけではない。だから俊治の友達だって、コンビニやゲームセンターにたむろしては、くだらない話に高笑いをしている。でも今彼らと過ごすと、優香を仲間はずれにしていた罪悪感を感じてしまうのだ。心のよりどころの優香は、もういなくなってしまったし。
そんな中だから、俊治の心を慰められる人物は、彼の知る限りでは、皆無だったと言っていい。
しかし、夜の薄明かりに照らされた公園には、いた。人気のない、廃墟のようなその場所に、一人佇む少年が。慰めまではいかないにしても、彼は「死」の思考から、俊治を少なからず遠ざけることとなる。
同級生の草薙弘樹だった。ジャングルジムの頂で、彼は煙草を吸っていた。鋭く重い目に、緩まぬ頬、そして伸びきった髪…学校でも問題行動の多い奴だった。規制の多い今、どうやって煙草を買ってくるのだろう。彼が考えることは、俊治にはわからなかった。
 見つめていると、向こうも俊治に気付いたらしく、彼はジャングルジムから飛び降りてこちらに歩いてきた。絡まれると嫌だと思ったが、逃げたらあとでなにがあるかわかったものではない。仕方なく俊治はじっとしていた。
「よぉ。なにしてんだ?」
弘樹は笑うと、煙草を砂場に放った。
「別になんにも。変かな?」
俊治が尋ねると、弘樹は首を振る。吸うか、と煙草を出してきたが、いい、と断った。あまりにも自然なやりとりで、俊治自身不思議だった。彼も自分も、紙一重なんだな、と思った。
「変なこたぁねえよ。俺もそうだ。そうしたいから、する。なにもしたくねえから、しねえ。吸いたいから、吸う。」
そう言うと、笑って彼はまた煙草を吸った。ジッポを点火する仕草も、大人みたいだ。いや、大人と一体なにが違うのだろう。
「大変なことになったね。」
つぶやくように、俊治は言った。
「そうだな。犯人、誰なんだろうな。」
そう言われて、はっとした。そういえば、犯人はまだわかっていない。恋人が死んだショックに打ちひしがれていたが、それよりも重要で、現実的な問題だ。
「早く捕まるといいね。」
月並みのセリフを言った。それ以外、なにが言えるだろう。恋人を失った中学生が言うべき言葉は、なにがあるだろう。
「早く捕まえて、どうする?」
弘樹が尋ねてきた。唐突で意外な質問に、思わず彼を見つめた。まっすぐな目、真剣な目だった。弘樹は続けた。
「早く捕まえて、誰が得するんだ?」
「…」
答えられなかった。言われてみれば、そうだ。
「ま、犯罪者が罰されるのは道理だけどな。殺人は被害者がいない。遺族だけだ。他の犯罪と、なんか違うだろ。俺達にはたしかにショッキングな事件だけど、犯人が捕まって、俺達がそいつを罵って、なにが変わるんだ。」
妙に一理あった。犯人を捕まえても、優香は戻ってこない。でも…
「でも、逆に完全犯罪になったら?恐怖と、納得のいかない気持ちだけが残っちゃうよ。」
「安心と、納得のため、か。」
すばやく返された。そう言われると、違う気がする。自分たちのために、人を殺した犯人を捕まえる。命を奪われたのは、被害者なのに。
「お前は、犯人を捕まえて、そいつの気持ちがわかるのか。豚箱の中に犯人が閉じ込められたら、もう大丈夫と一息つけるのかよ。自分の傷跡を見過ごして、はいそうですか、と納得して、二人の死を割り切れるのか。」
痛烈な言葉に、俊治は呆然とした。
「でも…でも…犯人を野放図にして、これ以上傷跡を広げるわけにはいかないじゃないか。同じ過ちを繰り返して…それで…」
言葉を紡ぐ途中で、それが真意でないことを自覚した。優香のお母さんと話しているときと同じで、ほとんど、嘘に近い。これを、綺麗事と言うのだろう。真意の伴わない正義感、それすなわち、思考からの脱却だ。
それを続けられなかったのは、正義を盾に、自分が逃げていることを悟ったからだった。優香と付き合っていたとき、俊治は恋人を捨て、クラスの排除からまんまと逃げおおせた。その後悔が、辛かったから、もう逃げたくない。俊治は今、逃げることから、またやはり、逃げていた。
口ごもる俊治を見切ったのか、弘樹は終止符を打った。
「なるほどな。変なこと聞いちまったな。すまん。そろそろ帰れよ。」
言われるがままに、鞄を背負った。そろそろ補導時刻だ。
別れ際に、弘樹が、また明日、と言った。俊治も慌てて、また明日、と返した。俊治は頭を抱え、公園を出た。
家路を歩むと、遠くにぼんやりと家の灯が見え始めた。生を感じる、愛おしい光だった。家に着くやいなや、俊治はベッドに飛び込んで目を閉じた。そして静かに、泣いた。
次の日も、俊治は優香の家を訪ねた。プレゼントを返すためだ。包装紙の中身は、金色のオルゴールだった。ゼンマイ式の、流行曲のオルゴールだ。哀しさを内包した喜びに浸りながら、昨夜、俊治は一晩中、たった数十秒間の曲のサビに陶酔した。
でも、やっぱりそのオルゴールを受け取るべきではないと、俊治は思った。一周年の記念品は、一周年のときに貰うべきだ。二人の恋は、三日前にプツンと終わった。だから、プレゼント交換もなしだ。
それに本音を言えば、重すぎた。オルゴールを見るたび、優香のことを思い出してしまう。これでは、立ち直るにも立ち直れない。また逃げるのか、と良心が咎めたが、前へ進むため、と割り切った。前へ進む、意志もないままに。
インターホンを押すと、優香のお母さんが出迎えてくれた。相変わらず笑顔だったけれど、また痩せた。げっそりとした笑みだった。このままじゃ、この人も死んでしまうのではないか、と俊治は懸念した。
「こんにちは。ちょっと優香ちゃんの部屋を借りてもよろしいですか?」
「優香…ええ。どうぞ。」
優香、という名前に一瞬たじろいていたが、俊治が懇願すると彼女はすぐに通してくれた。
真っ暗な廊下を抜けて、優香の部屋に入った。懐かしい。もう懐かしく感じた。優香も過去の人になったんだな、と俊治はしみじみ思った。
日に照らされた勉強机に、オルゴールを置いた。鞄の奧から優香の手紙を取り出して、その横に添えた。宛名は涙ににじんだが、他は元通りにしてある。
「ありがとう。優香。」
それだけ言った。ゼンマイの巻き残りなのか、返事をするように、オルゴールから音が鳴った。ちょっぴり切なくなって、少しの間、一人で泣いた。
しばらくして部屋を出た。溜まっていた涙を流しきったのか、それとも源泉が枯れ果ててしまったのか、もう、涙は出なかった。
「終わった?お茶にしない?」
と、優香のお母さんが言った。お茶は飲みたくはなかったが、彼女の飢えを少しでも凌げれば、と、俊治は敢えてお願いした。
ダイニングでお茶を待っているつかの間、
「犯人、誰なんでしょうね。」
と俊治は口にした。
「犯人……?」
優香のお母さんが呆然と聞き返した。
「ええ。犯人です。きっと死刑になります。」
俊治は静かに言った。二人も殺したのだから、死刑になるだろう。それに意味があるかどうかは、わからないけれど。
「そうね。絶対捕まえなきゃね。」
気迫のある声に、俊治は思わず真里のお母さんを見つめた。
「許せないわ。絶対許せない。」
そう言いながら、優香のお母さんはティーカップを持ってきた。テーブルに強く置きすぎて、紅茶がソーサーにこぼれた。そうですね、と圧倒されながら俊治は答えた。
「絶対、捕まえましょう。お母さん、頑張らなくちゃ。優香の遺恨を晴らすわ。」
優香のお母さんは、急に剛健なオーラをまとい始めた。
「晩ご飯、食べていって。ご馳走するわ。」
突然の変化に最初はついていけなかったけれど、俊治には自然と、理由がわかってきた。追うべきものが見つかり、そこに気が逸れることで、優香のお母さんは、前を向いて歩き始めたのだ。
方向こそ多少ずれているものの、よかった、と俊治は思った。きっとこれで、優香のお母さんも、元気を取り戻すだろう。
それに一瞬だけれど、懸命な彼女の姿に、俊治は母親の姿を見た。教育熱心な母の姿がそれに重なるや、俊治はその愛を、思い知らされたような気がした。彼は母親が、それほどいやなものじゃないように思えてきた。それだけではない。嫌いで仕方がなかった大人達が、俊治の胸の奥で、僅かながらも、姿を変え始めていた。
結局俊治は、夜まで優香の家にいた。犯人像の推測を、うんざりするほど聞かされて。
その日の夜、帰り道で再び公園に寄った。
また、思いがけない人物がいた。
同級生の谷崎聡美だ。
優香とは正反対の、明るいスポーツ少女だった。そんな、健やかさで有名な少女が、今ブランコに揺られながら、電灯に青ざめた大地を見つめている。
怪訝に思って、俊治は声をかけた。
「よう。谷崎。なにしてるんだ?」
聡美はゆっくりと顔をもたげて、こちらを見つめた。目が合って、俊治はドキッとした。灯りに照らされて、聡美の頬がきらりと輝いたのだ。
泣いていた。
「ご、ごめん。」
慌てて俊治は背を向けた。胸の動悸は全く止まる気配がない。女の子の涙に触れる―なんだかとんでもない大罪を犯したような気分だった。
「いいよ。行かなくても。」
掠れ声で、聡美がつぶやいた。
「え?」
驚いて思わず振り向いた。聡美は俊治の方を見て笑っていた。なんだか急に恥ずかしくなって、俊治はうつむいた。さっきとは違う動悸が生まれた。これは、優香と経験がある。
「言いふらしたりしないなら、別に、いいよ。いても。」
「う、うん。」
なんだか居心地悪くなって、俊治も聡美の隣のブランコに腰掛けた。揺らすわけでもなく、じっと座っていた。
「健介のことをね、考えてたの。」
ぽつりと、聡美は言った。
「もしかして―」
「そう。付き合ってたの。私達。」
驚きのあまり、俊治は目を見開いた。
健介と聡美の関係にではない。中二ともなれば、付き合っている奴はたくさんいる。だが、他に恋人に死なれた中学生がいるなんて、まるで予想だにしなかったのだ。
「辛い、よね。ひたすら。」
俊治も応じた。ありのままの心の内を打ち明けたのは、聡美が初めてだった。シンプルな言葉だけど、なにもかもはき出すように伝えた。
「トシくんも、優香と?」
「うん。」
「そうなんだ。」
優香のお母さんには全く伝えられなかったことを、彼女にはいとも簡単に話せた。やっぱり、同士だからだろう。それに、今の秘密は、道具でも、自慢でもない。ただ純粋な一つの情報に過ぎないのだ。二人が分かち合っているのは、もっとずっと深く、重いものだった。
「ごめんね。私達、優香のこと、仲間はずれにしてた。」
聡美を見ると、頭を下げていた。俊治は、猛烈に苦しい気持ちになった。彼に、謝られる資格などないからだった。
「僕も、同罪なんだ。だから、謝らないで。」
自分自身も、逃げ、罪を犯した。俊治は静かに、それを認めた。聡美が近くにいると、いろいろな受け入れ切れていなかったものが、すっと胸に入ってくる。
二人はなにも言えなくなって、うつむいた。
「あ、そうだ。」
ふと思い立って、俊治は学生鞄を開けた。まだ中にある。今や行き先のないペンダントが。聡美になら、あげてもいい。
「これ。あげるよ。」
ブランコから立ち上がって、俊治は聡美にペンダントを手渡した。
「なぁに。これ。」
聡美は首をかしげた。
「お守りだよ。ちょっとでも、谷崎の心が癒えたらいいな、って。」
「いいの?」「うん。」
嬉しそうに笑うと、聡美はペンダントを受け取った。
「着けてもいい?」
遠慮がちに問う彼女に勢いよく頷いて、ペンダントを着けるのを手伝った。
「ちょっと大きいかな?」
チェーンが長めだったためか、飾りが胸の辺りまで下りてしまっていた。それでも…
「それでも、よく似合ってるよ。」
「えへへ、ありがとう。」
照れくさそうに、聡美は笑った。その笑顔は、月明かりに照らされた宝石に負けないくらい、美しく輝いていた。
「ちょっと、いい?」
不意に聡美がブランコから離れた。俊治もそれに従う。と、そのとき、胸になにかが飛び込んできた。
聡美だ。
その少女は、俊治に抱きつき、泣いていた。声を上げることもなく、俊治の肩に埋もれ、泣いていた。
「温かい。」
聡美が背中に手を回し、濡れた頬をうずめた。彼女の温もりが、体中に伝わってくる。同時に、悲しみが分かち合われ、癒えていくのがわかった。
「ごめんね。甘えてるよね。健ちゃんがいなくなっちゃったからって…でも、お願い。ちょっとだけ、ちょっとだけでいいから…トシくんに…」
聡美が切れ切れとした声で言った。なんだか胸がきゅっと締め付けられて、俊治は彼女の肩を強く抱きしめた。
「大丈夫だよ。僕も、同じだから。」
「本当?」「うん。」
深く頷いて、聡美の髪を撫でた。なだらかな黒髪からは、ほのかな石けんの香りがした。優香のことが思い出され、瞼の奧が熱くなった。涙が出ないようにと、俊治は必死だった。今泣いてしまったら、自分は聡美と共に、崩れ去ってしまうような気がして。
ただ一人の理解者に、二人は胸が焼けるような思いだった。ここにあるのは、周りの人々がよこすような、うわべばかりの憐憫の情ではない。真意からの、絶対的な想いだ。二人ともそれを知っていた。だから、抱き合った身体は、しばらく離れようとはしなかった。
夜中になって、二人は別れた。
久々に安らかに眠れそうだ、と俊治が家路を歩いていたとき…
事件は、起こった。
キャアアア
叫び声が聞こえた。
聡美の声だ。
俊治の中で、警鐘が鳴り響いた。聡美が危ない。殺人鬼かもしれない。背筋が凍るのと、俊治が声の方に走り出すのは同時だった。
怖かった。身の毛がよだつほど怖かったが、それ以上に聡美を守りたかった。これ以上、誰も殺すことはおろか、傷付けさせない。犯人を捕まえようと、優香の母さんとも約束した。戦わなきゃいけない。
一度っきりの叫び声なのに、なぜか方向がわかった。得体の知れない何者かに引っ張られて、俊治は疾走した。家の灯が瞬く間に視界を駆け抜けて行った。
辿り着いた先は、薄暗い路地の、行き止まりだった。その端っこに、優香が佇んでいる。その顔には恐怖の色が刻み込まれていたが…まだ、生きていた。
安心もつかの間、目は犯人に合わさった。
「弘樹…」
俊治は震える声でその名を呼んだ。煌々と光る小型ナイフを握っていたその男は、なんと、弘樹だった。
だが、俊治には目もくれず、彼はナイフを掲げた。それは、聡美の方へと…
俊治は死に物狂いで、弘樹に突進した。
速く、速く、速く
間に合って欲しい。ナイフは驚くべき速さで、聡美の心臓へと近付いていく。
「やめろおおおおおおおおおおお。」
俊治は叫んだ。
ズンッ、と音がした。同時に、弘樹の身体が吹っ飛ぶ。空中へと舞い上がったナイフを、俊治は必死で掴み取った。轟音と共に、弘樹は路地の壁に叩き付けられた。
聡美は?
聡美のいた方を見る。いない。
いや、いた。路地に聡美が倒れている。
「聡美!」
慌てて彼女に駆け寄った。仰向けになって、目をつむっている。
お願いだ生きていてくれ、と至願して、俊治は彼女の肩を揺すった。
「俊治…」
微かな声が、聡美の口から漏れた。安堵と歓喜とが、俊治の心を満たした。
「頑張れ。救急車、呼ぶから。」
大急ぎで携帯を取り出したとき、ほの白い彼女の手が、それを制した。
「要らないよ。」
どうして、と聡美の胸を見て、俊治は目を見張った。
そこには、真っ二つに割れたペンダントがあった。公園で渡した、あのペンダントだ。その先端の小さな宝石が、奇跡的に彼女を救ったのだ。
「ああよかった。よかった。心配させやがって。」
俊治は差し出された聡美の手を、強く握りしめた。ほのかな温もりがあった。生きている証拠だ。当たり前のことが、今の俊治には一番大切で、ありがたかった。また大切な人を失わずにすんだのだから。
俊治は、勢いよく立ち上がって、今度は弘樹を睨み付けた。彼は路地に突っ伏して、なにも言わずにこちらを見ていた。
「許さないぞ。同級生だろうと友達だろうと、絶対に許さない。絶対に。」
「勝手にしろ。」
と、弘樹は吐き捨てるように言った。はらわたが煮えくりかえるような気持ちだった。この男が、健介と、優香を殺したのだ。悪魔、殺人鬼、極悪非道、冷血な奴―彼を罵る言葉が次から次へと沸き上がり、胸の中で渦巻いた。思いつく限りの罵詈雑言を百万年浴びせたとしても、自分の心は収まることを知らないだろうと、俊治は確信した。
だが、俊治が制裁を与える資格も、必要もなかった。叫び声を聞いて誰かが通報したのだろう。俊治の背後では、パトカーのサイレン音が単調に、遠く響いていた。
次の日、また芳美先生に呼ばれた。
「今日は、三点ほど伝えることがあります。」
芳美先生は静かに言った。俊治もまた、静かに頷いた。
「まず、君はとても勇敢でした。無茶をしたことはいけませんが、よく事件を止めてくれました。ありがとう。君にはおそらく、なにかしらの賞が…」
「二点目はなんですか。」
性急に、俊治は尋ねた。称賛など要らない。そのために戦ったわけではないのだから。
諦めたように、芳美先生は続けた。
「二点目は、草薙君についてです。彼は殺人容疑と未遂の現行犯で、拘束されています。この件で、彼を特定できるような情報について、君は守秘義務があります。よろしいですね。」
謎のまま消えるんだな、と俊治は落胆した。草薙弘樹という犯人は、このまま誰の目にもとまることなく、闇へと消える。少年法の、名の下に。
「どうして、彼はこんなことを?」
「知りたいのですか?」
「もちろ…」
そこまで言って、俊治は口ごもった。この世に、優香の殺害を正当化しうる動機など、何一つないと思ったからだ。彼の心理を知ったところで、それを受け入れることもできないまま、憎悪が生まれるだけだろう。
芳美先生を見つめた。訴えかけるように俊治を虎視する彼女の目は、心なしか潤んでいるように見えた。
全てを封じ込むように深呼吸をすると、俊治は質問を切り替えた。
「今後、どうなるんですか?」
一番気になることだった。芳美先生は一度溜息をつくと、こう答えた。
「十三歳ですから、彼は刑事犯になることはありません。今後家庭裁判所に送られ、保護更正措置となるでしょう。」
「…そうですか。」
静かに答えたけれど、やりきれない気持ちだった。
「どうして…」
「はい?」
「どうしてですか。一人の人間を殺めて、あれだけ母親を追い詰めて、それでもなんの罰も科されないなんて、あんまりじゃないですか!優香はいい奴でした。独りぼっちだったけど、仲間はずれだったけど、それでも僕らにはすっごく大切で、いい奴で…最高の奴でした!その命を奪ったのに、どうしてあんな不良はお咎めなしなんですか!命は…命は、平等ではないんですか!」
芳美先生に、全ての怒りをぶつけた。三日間、人知れずして彼の内に溜まっていた、煮えたぎる赫怒だった。来月の誕生日まで、たった数週間の差で罪を免れるなんて、絶対に許せないし、許されるべきではないはずだ。そう信じたい。どんな理屈があろうと、絶対に…贖え、と叫びたかった。弘樹に対してだけではない。罰されるべくして罰されない、全ての罪人への叫びだった。
「その問題に、幾多の人が悩んできたことは、十四歳の君に話すまでもないでしょう。現在も依然として答は見当たりません。あなたが試験の問題を解くように、答を導き出すことはできないんです。私達教育者としては、残念ですが、彼が子供だから、としか答えることができません。」
「そんな…」
公園で、彼と大人はなにが違うのか、考えた。その答をこんな形で示されることになるなんて、悔しくて仕方がなかった。
「三点目は―」
次なる怒りが湧いてくる前に、芳美先生が開口した。
「優香さんのお母さんが、自殺しました。」
えっ、と俊治は息をのんだ。
「前述のことをお話しした矢先でした。残念です。」
芳美先生はそれきり何も言わずに、席を立った。きっと先生も、次の言葉が見当たらないのだろう。俊治には痛いほど、その気持ちがわかった。二十年以上長く生きている人でも、気持ちの根幹は同じなのだ。
何となく予感めいたものはあったが、その衝撃的事実に、俊治は驚愕を隠せなかった。
それでも、自殺の理由は、察しがつく。
犯人を追い詰めることもできなくなり、お母さんは逃げ道がなくなってしまったのだろう。優香の孤独な死だけを目前にして、耐えられなくなってしまったのだ。そして彼女は、優香を追いかけてしまった。
捕まえなければ、と俊治は考えた。もし弘樹を自分が追い詰めなければ、お母さんは永遠に犯人を追い、生き続けたのではないか、そう思った。先生は褒めてくれたけれど、本当に正しかったのか、俊治にはわからなかった。
職員室を出て、玄関まで歩いた。いつだったか、三者面談のときに、廊下で優香とお母さんが並んでいるところを見かけた。もう二度と、あの光景を見ることはない。
「優香、ごめんね。お母さん、守れなかった。あのひとを頼むよ。」
俊治は、廊下の窓から見える、哀しいくらい青い空に送った。優香のお母さんは、机上のオルゴールを見たのだろうか。見たのであれば、やっぱり話しておけばよかった。その思い出が、彼女を救ったかもしれないのだから。この果てのない後悔は、オルゴールからの、言い換えれば、優香の死からの逃避に対する、罰なのかもしれない。
それに、俊治はお母さんに生き甲斐を与え、自らそれを絶った。僕も、弘樹と同じ、人殺しだ。間接的にだが、人を死に追い詰めた。
無数の因果が重なって、死の連鎖が起きてしまった。何年も積み上げられた命が、ドミノ倒しみたいに、あっけなく崩れ去ってしまった。
優香を見捨てた罪。お母さんを追い詰めた罪。これに、どう向き合えばよいのだろう。罪人に叫んだ「贖え」という声が、そのまま自分に返ってきた気がした。生きることさえも怖くなった。自分の一挙手一投足、なにが人を追い詰めるかわからない。知らず知らずのうちに、人を追い詰めているかもしれない。
絶望と後悔とに打ちひしがれて、俊治は校門を出た。通学路を歩いていると、少女が手を振ってくる。聡美だと、すぐにわかった。宝石は割れてしまったのに、彼女はその欠片の残ったペンダントを、未だに着けていてくれた。
心の闇に、一筋の光が差した。
甘くて温かい気持ちを、二人は確認し合った。新たな恋が、芽生えようとしていた。代替でも、元気づけでもない、新しい恋だ。喩えるならばそれは、焼け野原に建つ、一棟のバラック―これから、僕らの復興が始まっていく。
そうだ。僕には未来がある。
過去の罪もある。これから罪を重ねることもあるだろう。
でもこうして、人と幸せになることもある。
手を繋いで、二人は商店街を歩いた。茜色のその街は、前より少しだけ、明るくなった気がする。
「これで、よかったんだと思うよ。」
と、聡美が言った。そうだろう、と信じて、俊治も頷いた。
弘樹の問いへの答も、逮捕の是非さえ、まだわからない。クラスでもまた、仲間はずれが生まれるかもしれない。
けれど、どんなことがあっても、僕らは確実に前に進んでいる。多くを知り、考え、僕らは強くなっていく。どうせ前に進むのなら、前を向いて行きたい。
それに―
今、自分の左手には温もりがある。この温もりは、僕が守ったものだ。命の儚さは痛いほど噛みしめたけれど、同じくして、僕らでも命を救えることも知った。これからは、できるだけ多くの命を守り、大切にしていきたい。
もう、仲間はずれを見捨てない。
後悔がないように、他者と共に生きていく。
僕は、命のために戦う。
その誓いを、手向けとして、優香におくる。
今日は、一周年記念日、そして同時に、再出発の日だ。僕はこれから、聡美と共に戦っていく。
「行こうか。」「うん。」
夕日に染まる商店街を、二人の少年少女が、まっすぐに走っていく。赤い光に照らされて、少女の胸のペンダントが、一瞬、きらりと輝いた。