さいごの感謝祭
「じいちゃんの葬儀は、私の家でやるよ。」
空っぽのベッドの前で、ばあちゃんはそう言った。
「ソウギ?」
わけがわからない、とでも言うように健介は尋ねた。
人が死ぬ―子供には普通、不自然に他ならぬ趨勢のさなかだ。彼は、大人達の言葉がみなもやがかかったように不可解で、戸惑いを隠せなかった。普段喜色満面に自分の髪を撫でてくれる人たちが、突如慟哭したと思ったら、今度は忙しそうに廊下を行き交い、今は自分には目もくれずに虚空を見つめている。健介は自分が大人達から取り残され、仲間はずれになっているような気がした。何が起こっているか聞こうにも、みんな悲しみに暮れていて答えられそうにない。どんな質問にも答えてくれたじいちゃんは、見たこともない人たちに連れられてどこかに行ってしまった。
「準備は手伝うわよ。」
しおれた微かな声で、母さんが言った。隣で父さんも、うんうんと頷いている。
「娘に手間かけるなんて、きっとじいちゃんは許さないわ。私にやらせてちょうだい。」
ばあちゃんが宣言するように言い放つと、二人はそれきり押し黙ってしまった。
病室が静かになると、窓から少年達の高笑いが聞こえてきた。健介は彼らの方へ行きたいという衝動に駆られたが、それは無言の圧力によって諫止され、いつの間にか嫉妬へと置き換わった。
じいちゃんの葬儀まで、この嫉妬は健介の胸にこびりついたまま、離れることを知らなかった。居間に行けば母さんが泣いているし、洋間ではひたすら父さんがうつむいている。彼らを気遣って、健介はテレビもトランプもみな我慢しなければならなかった。他の子供達が娯楽に興じているのを思うたび、健介の心は激しく煮えた。
その陰鬱な時間には、すぐに終わりが来た。母さんに連れられて、健介が葬儀に行ったときだ。
ばあちゃんの家に踏み入るや否や、健介は目を見張った。ばあちゃんの家は、それまでの姿とは打って変わって華やかだった。幾多のご馳走がテーブルに並べられ、色とりどりの花で彩られている。天井には国旗が並んでいて、穏やかなライトにきらきらと輝いていた。奥の棺の周りでは、見慣れない大人が何やら笑顔で話しているようだ。
「何なの、これ。」
第一声を発したのは、健介ではなく母さんだった。唖然とした表情で、きょろきょろと部屋を見回している。今まで知らなかった母さんのきょとんとした表情に、健介は笑いを堪えるのが必死だった。
「やあやあ。待ってたわよ。お上がり。」
棺の周りの群れから、ひょこりとばあちゃんが姿を現した。なんだかとても楽しそうで、病院での姿が嘘のようだった。
「何なの、これ。」
母さんが復唱した。ばあちゃんは自慢げにほほえむと、
「いいでしょう。お誕生会みたいで。」
と健介に問いかけた。うん、と思いのままに健介が数日ぶりの笑みを浮かべると、母さんがぴしゃりとその頭を叩いた。
「ねえ、おばあちゃん。お葬式なのよ?」
母さんが溜息を漏らすと、ばあちゃんは腕を組んだ。
「そう。坂原家自慢のお葬式。葬儀屋さんじゃこんなことしてくれないわ。おじいちゃんの遺言でね、葬式は体裁はいいから、楽しくやってくれって。それを叶えてあげるのよ。じいちゃんもきっと喜んでいるわ。」
「そうかしらね。」「そうよ。」
冷ややかかな母さんの返事にも、ばあちゃんは動じなかった。次いで、ばあちゃんは健介に向き直った。いつになく真剣な目だったので、健介は固唾をのんだ。
「もう年長さんだから、お約束守れるね。」
ばあちゃんは確認するように問うた。
「うん。守れる。」
もちろんだ、と健介は頷いた。確固たる自信はなかったけれど、その“約束”を守ることでやっと、遠ざかっていたばあちゃん達の世界に入ることができるような気がした。
「よし。いい?どうしていいかわからなくなったら、『ありがとう』って言うこと。『さよなら』はだめ。『さよなら』って言うと、じいちゃんとの繋がりが切れちゃうの。『ありがとう』って言うのよ。じいちゃんもばあちゃんも、その魔法の呪文で、何十年も生きてこられたの。いいね。『ありがとう』」
「ありがとう。」
確認するように、健介は何度もその言葉を繰り返した。そのたびにばあちゃんは深く頷いて、健介の頭を撫でてくれた。大人の仲間入りをしたような気分だった。
しばらく経って、ばあちゃんに
「おじいちゃんに会うかい?」
と聞かれた。久しぶりに会えるのか、と健介は嬉しくなって、連れられるままに棺の前に行った。
箱の中から、じいちゃんの顔が覗いていた。眠っているらしい。久しぶりに会ったのに、と健介は少しがっかりした。
「じいちゃん。」
試しに健介は呼んでみた。返事はない。
「じいちゃん。」
もう一度呼んだ。そこで健介は異変に気がついた。いびきをかいていないし、肌が青白い。いつもならちょっと赤らんだ顔で、耳を塞ぎたくなるほど大きないびきをかいていたはずだ。
「じいちゃん。どうしたんだい。」
懸命に腕を伸ばして、健介はじいちゃんの頬に触れた。びくっと小さな手が震えた。温もりの喪失を前に、その震えは心の奥まで伝った。
「じいちゃんはね、お別れしたんだよ。」
「お別れ?」
ばあちゃんに言われて、健介は呆然とじいちゃんを見つめた。相変わらず、目をつむったままだ。
じいちゃんが死んだということが、お別れをした、ということなのだと、このとき健介は初めて知った。それは、じいちゃんに話をしても、もう今までのように笑いかけてくれないということ。それは、じいちゃんに触っても、冷たい感触しか返してくれないということ。じいちゃんがどれだけ大きなお別れをしたのか、このとき健介は悟った。
「そんなのやだよ。じいちゃん。」
急に、瞼の奧が熱くなった。喉の奥で何かがひっかかったようで、とても苦しかった。
「やだねえ。健介、悲しいね。でもね、どうしようもないんだよ。」
ばあちゃんはつぶやくように言うと、ゆっくりと瞼を閉じた。細いまつげが輝いているらしかったが、健介の方の視界もぼやけて、やがてほとんど何も見えなくなった。
どうしようもない、とばあちゃんは言った。どうしていいかわからないときは―
「ありがとう。」
健介はそう言った。そうよ、とばあちゃんが健介を撫でた。喉の奥の痛みが、少しだけ和らいだ気がした。
「ありがとう。ありがとう。ありがとう。」
健介は何度も繰り返した。言えば言うほど、涙が溢れた。悲しみの波が突き上げては、またゆっくりと引いていく。
感謝の言葉だ、と誰かに教わった。でも、こんなに素敵な魔法の呪文だとは、全然知らなかった。心のつっかえが一気に取り去られて、涕泗が際限なく溢れ出ていく。
「ありがとう。」
気付くと、隣で母さんが同じ言葉を言っていた。それでいいのよ、とばあちゃんがほほえんだ。
「ありがとう。」
振り返ると、幾多の大人がその言葉をつぶやいては、嗚咽の声を上げていた。魔法の呪文が、みんなにも効いたらしい。
「ばあちゃん。」「なんだい。」
健介が呼ぶと、ばあちゃんは、応じた。
「ありがとう。」
健介は言った。ばあちゃんは健介を独りぼっちから救い、魔法の呪文で癒してくれた。だから、感謝しなければいけない。
「こっちこそ、ありがとうねえ。」
ばあちゃんは裏返った声を上げると、健介を強く抱きしめた。そしてじいちゃんを見ると、
「この子みたいに、あなたに感謝できていたら、感謝祭なんていらなかったのにねえ。」
と切なげにつぶやいた。
温かい滴が、健介の頬を伝った。しょっぱい味が、健介の小さな口に染み入る。だがそれからしばらくすると、また別のほんのりと甘い味が、舌先に広がってきた。
それから健介達はご馳走を頬張ると、集った親戚といろいろな遊びを楽しんだ。将棋に花札、それからけん玉…みんなじいちゃんに教わった遊びだ。じいちゃんが形を変えてこうしてたしかに生きていることを知ると、悲しみはやがて、なにか朗らかな安堵、そして感謝へと変わった。加えて健介は、ここ数日煮えたぎっていた嫉妬がきれいさっぱり消え去って、心が幸福に満たされるのを感じた。
そんなとき、刹那、じいちゃんの声が聞こえた。
ありがとうな
はっ、としてじいちゃんを見たけれど、眠ったままだ。
「どうしたんだい。」
ばあちゃんが怪訝そうに健介を見つめた。
「ううん。なんでもないよ。」
健介は首を振ると、じいちゃんの遺影を見た。その顔は一瞬、笑ったように見えた。