リモコン
一
「おーい、まだナミヨンに住んでるかー」
電話口から突然、懐かしい名前が耳に飛び込んできた。一週間分の疲労を宴に溶かしきって、街が少しずつ夜風に凪いでいる、金曜日の夜中のことだった。
ナミヨン。
名見田町四丁目、略してナミヨン。郊外の一角にある、なんでもない住宅地の略称だ。この地区をその名で呼ぶ人は、周りにはすっかりいなくなってしまった。
「うん。住んでるよ。どうした」
「まさか、まだ住んでるとはな。化石みたいな奴だ。すまないが、終電で寝過ごしちゃってさ、泊めてくれないか」
うっとうしい、と感じつつ、たしかに心が少し躍った自分がいた。
電話の主は、健太。大学時代の友人だ。懐かしい人がこの街にくるのは何年ぶりだろう。ビール二缶で流しかけた華金の夜が、ささやかな潤いと期待をはらんで、ぼくを抱きなおした。
「わかった。何時に着く?」
「もう駅前にいるから、十分くらいかな」
「わかった。部屋を片付けておく」
「さんきゅ」
電話が切れる直前に、聞きなれた駅前のアナウンスが聞こえた。ほんとうに、健太はこの街にいるのだ。
部屋に散らかった空き缶をコンビニのビニール袋に投げ入れ、洗濯物を洗濯機に放り込めば、男二人で過ごすには問題のない広さになった。男の一人暮らしにしては、比較的きれいなほうだ、と思う。彼女と別れる前はもう少しきれいだったが、一人に戻って客人もなくなってからは、床の上はともかく、小物まで整える気力はすっかりなくなってしまった。リモコン台に収まるはずの照明リモコンも、探すのを後回しにしたまま、スイッチが代わりに仕事をしている。この日になるまで、そういうことを、改めて気にすることもなかった。
二度目に電話が鳴ったのは、それから三分後のことだった。
「ごめん。迷子になった。目印の店が見つからねえ。住所送ってくれ」
「入り組んでるから、探すと余計迷うよ。いったん駅戻って。迎えに行くわ」
部屋着の上にジャージを羽織って、ぼくは玄関を出た。
目印の店、というのは、おそらく家の近くにあった韓国料理屋だろう。入り組んだこの地区で最短でうちに向かう、いい目印だった。しばらく前に食料品の値上げがあったとき、店主の高齢もあいまって、店をたたむことになった。学生が多かったころなら、引き継がれたり、居抜きで看板だけ変わったりしたかもしれない。
健太はとりわけ方向音痴、というわけではない。それだけ、この街が変わってしまったのだろう。ぼくらが大学を卒業してからこの日まで、十年の月日を経ている。ぼくには少しずつだった変化が、積もり積もっていっぺんに、彼に立ちはだかっているのだ。
四月の夜はまだ少し肌寒いが、道の桜はすっかり散って、せっせと新緑の支度をしている。ぼくのアパートに初めて彼が来たのも、授業に慣れて酒にも手を出し始めた、ちょうどこのくらいの季節だったと思う。
駅前バス停の脇に、彼は立っていた。背広姿で、腹も出ていたが、待っているときのせわしない動きが相変わらずで、すぐに見つけることができた。
「よっ」
「おお。久しぶりだなあ」
ぼくに気づくと、彼は大げさに手を振ってこちらに走り寄った。もう奥さんになったが、健太の彼女が昔、この様子を「犬みたい」と言っていたことがある。足は遅くなったものの、この犬はきっと死ぬ直前まで、彼女にこんな風に走り寄っていくのだろう。
「座って待っていればよかったのに」
「一応、バス停だろ? バス着たら気まずいじゃん」
「ああ、十一時以降のバスはなくなったから」
「マジかよ!? ずいぶんさびれちゃったなあ」
健太は呆れて時刻表を確認する。
都心まで時間はかかるものの、始発・終着駅だったこともあり、健太が住んでいたころはこの街には人が多かった。バスも日付が変わるまで走った。家賃が安かったので貧乏学生にはうってつけの街で、地方から出てきた東京の大学生の多くは、ここに住み、そして遊んだ。
「しかし、お前がまだ住んでて助かったよ。この辺はホテルもねえからなあ」
「たしかに。健太ならタクシーでも帰れそうだけどな」
「冷たいこと言うなって。車掌に起こされたときにさ、駅名に気づいて、今だっ、って思ったんだよ」
「どこでも爆睡できるからな、健太は」
「岩の上でも寝られるよ。にしても、名見田はまだ終点なんだな。すっかり池見のほうに移ったのかと」
「最終はここなんだよ」
ニュータウン開発で鉄道が延伸してからは、名見田の名前はすっかり忘れられてしまった。だが、鉄道基地は健在であり、始発や終電では今も、ちゃんとこの駅が電光に表示される。
「来てくれて助かったよ。そこのコンビニでさ、土産ついでに酒買ってきたから。飲もうぜ」
「よっしゃ。と言いつつお前がほとんど飲むんだろ」
「バレたか」
健太がぶら下げているビニール袋に、大瓶のラベルが透けて見えた。学生のころ、ぼくらはよくウィスキーを買い漁り、その瓶が空くまで飲んで、夜明けとともに眠った。あの日よく買った銘柄だった。
「懐かしい瓶だね」
「もういいおっさんだし、オールドでも買いたかったんだけどな。通帳を握られてからはそんな人権はないのよ」
「あー、おしまいだね。一度でも渡したらアウトだから」
健太には気の毒だが、彼女は賢い。健太がいくら高給取りだからといっても、彼の酒趣味を前には、「足りる」ということはありえない。
健太は家までの道中、答え合わせをするように一つ一つ、建物を眺めて歩いた。途中、足が止まったのは、ラーメン屋があった場所だ。名見田町には二軒のラーメン屋があった。足を止めた場所にあった店は、激戦区に出ても遜色ないほどの名店だった。もう一軒は「入魂ラーメン」と言って、名前こそ気合が入っていたが、味はひどいものだった。誰もが前者が生き残ると思ったが、勝負を制したのは味ではなく、夜中まで開いている利便性のほうだった。
「店、みんな、なくなっちまったんだなあ」
思い入れのある場所を見つくしたのか、健太は桜の木の下にあった石ころを蹴りながら歩き始めた。
「何回か入れ替わりもあったんだけどね。最終的には」
「もう何にも面白いことないじゃん。引っ越せば」
「ひどいこと言うなあ」
「もっと便利なところがあるって」
言われてみれば、そうだ。大学も卒業して、就職をし、それなりにお金も入っている今、あえてこの街に住み続ける理由はない。だが、出ていく理由もなかった。ただ目の前にあるものを片付けていくうちに、いつのまにか時間が経ってしまっていた、そんな感じがする。
「あ、やっとわかった。あの建物でしょ。韓国料理の店がさ、なくなったから、この角が見つからなかったんだよ」
ぼくのアパートを見つけると、健太は合点がいったように、石蹴りをやめ、小走りになった。街灯の明るさも控えめになり、月明かりがくっきりとしてきた晩春の宵、彼のナミヨンツアーは終了した。
二
アパートに帰って荷物を下ろすと、健太はさっそく瓶を開け始めた。コップの場所も、つまみ用の皿も、彼は全部覚えていた。大学で教わったことはすっかり忘れてしまっても、不思議とこういうことは覚えているものだ。
「近ごろの惣菜はパックで量をごまかしてるからダメだ」
愚痴を言いながら、健太はそそくさ晩餐の支度を進める。学生のころも、同じようなことを言っていたような気がする。
「しっかし、お前の家は全然変わらんなあ」
「そうかな。言われてみればそうかもしれない」
「タイムリープしてるみたいだわ」
さきいかをムシャムシャと食べながら、健太は乱暴にウィスキーを注いだ。申し訳程度の乾杯をして、グラスに口をつける。学生のころとなにも変わらなくて、ぼくも昔に戻ったような気がした。
「あえて引っ越すこともないからねえ」
「まあなんだかんだ便利よな。ナミヨン。俺も職場が近かったら住んでいたかもしれない」
「まだあそこに住んでいるの」
「そうだ。その話をしなきゃな。俺、今度家を建てるんだ。遊びにきてくれ。この辺にな……」
健太はスマートフォンを取り出すと、マップを操作し始めた。まだ住所を覚えていないようで、拡大縮小を繰り返しながら、ぼくに場所を示した。
「へえ、すげえじゃん」
「ローンを組んでから、とにかく嫁の監視が厳しいのなんの」
健太が家を建てるのは、さいきん穴場と話題の快速駅の近くだった。
「みんな変わっていくんだなあ」
とくに意識するでもなく、そんな言葉が漏れた。二十五を越えたころから結婚ラッシュが始まり、その後出産が続いてからは、友人のSNS投稿がめっぽう減った。そうなってから久々に、人のライフイベントを聞いた。
「お前が変わらなすぎるのも心配だけどな」
「変わらなすぎるって言われても」
変わらない。そのほうが珍しいのだろうか。
健太は心配そうにこちらを見ている。くすぐったくて、目をそらしてウィスキーを飲んだ。懐かしい匂いが鼻を抜ける。アイラ・モルトは相変わらずパンチが強い。
「そういえば、このあいだ永瀬さんに会ったんだけど、あの人も相変わらずだったな。飲み屋の確保とか、まるで仕事みたいに早かったよ」
永瀬先輩――学部の先輩だった。とにかく要領のいい人で、ゼミのとりまとめもサークルの管理も完璧な人だった。
「永瀬先輩と比べられても」
同じ変わらない、でも、ぼくとは全然違う。永瀬先輩は、変わらないほうがいい。
「はっはっは。まあでも、この歳になったんだ。お前も会社ではけっこうな先輩ポジションだろ。後輩からしたら、俺らにとっての永瀬さんみたいなもんだよ」
「老害みたいになってないかな」
「知らん。俺に聞くな」
「まあ、そうだよな」
元々人数の少ない会社なこともあって、後輩ができるまでにはかなりの年数があった。後輩、という存在ができるのが久しぶり過ぎて、どう接すれば良いのかわからないまま、ぼくはこれまで"先輩"を演じてきた。
「大学に入ったばかりのころに会った永瀬先輩にすら、ぼくは追いつけていないような気がする。あの人はすごい」
「うーん、そうか。まあなにかとしっかりした人だよな」
「うん」
健太はうんうん、と頷くと、さらにウィスキーを注いだ。バーで飲んでいるときの癖なのか、製氷皿から入れた氷を、指でぐるぐると回している。
「永瀬さんと飲んだときにさ、あの人ももう歳だから、昔ほど飲めなくなってて。あとちょっと涙もろくもなっててさ」
「うん」
「少し足取りがおぼつかなかったから支えたんだけど、その時、この人意外と甘え上手なのかもなあと思った」
「と言うと?」
「うまく言えないけどなあ。体重のかけ方とか、そういうのあるんだよ。チャリで二人乗りするときに、後ろの人の重心が肝になるみたいにさ」
健太は割り箸でバランスを再現しながら、続けた。
「だから、先輩にも子供みたいなところあるんだな、って。年食ったから大人になるとか、ならないとかじゃないんだよなあ。切り替えてたんだよ。俺らも知らないうちにそうしてるんだろうな」
「切り替え?」
「みんなちょっとずつ、自分の中の大人と子供を切り替えて生きてるんじゃないか。俺たちは『大人』として振る舞う先輩を見てたし、俺たちもその前で、『子供』に切り替えてたんだ」
大人と子供を切り替える。たしかに、何度もそんなことを繰り返してきたような気がする。先輩の前のぼくと、後輩の前のぼくは、違っている。それは立場による卑屈や高慢以前の、もっと初歩的な部分において、たしかに違っている、と思う。
「まあ、永瀬さんの話はなんだっていいんだよ」
そう言ってずっといじっていた割り箸を置くと、健太は鞄を開けて、中を探り始めた。どっさり入った書類の山が、仕事人であることを物語っていた。石蹴りといい、氷いじりといい、なにかと落ち着きのない奴だが、多くの仕事をこなすにはそのくらいがちょうどいいのかもしれない。
「お、あったあった」
健太は、鞄の底からあるものを取り出した。
「新居に引っ越すときにさ、偶然見つけたんだよ。これお前ん家のじゃないか」
それは、照明のリモコンだった。
「おっ、この野郎、お前が持ってたのかよ。探してたんだぞ」
「ごめんって。いやね、渡さなきゃと思って脇に置いといたまま、さ。卒業になっちゃったもんだから」
健太はそう言うと、リモコンを投げてよこした。
受け取ったリモコンの重さが伝った瞬間、昔の出来事が、走馬灯のように駆け巡った。健太のドッキリ誕生日会、彼女との初夜に、徹夜で書いた卒論……すべてこのリモコンが近くにあった。それはまるで、学生時代から飛び越えてきたタイムカプセルのようだった。家のあらゆる品々がこれまでのぼくと生きてきたなか、このリモコンだけは、学生時代のどこかの一日から、今日この日までを断絶して、この手の平にある。
「いろいろ思い出したか」
見透かしたように、キラキラした目で健太はぼくを見た。健太もいろいろ思い出したようで、氷や割り箸をいじることなく、静かにグラスに口をつけている。
返事をする代わりに、常夜灯ボタンを押した。部屋がいっきに暗くなって、橙色の闇が覆った。スイッチでは切り替えられなかった、第三の部屋の色だ。点灯、消灯と常夜灯だけのシンプルなリモコンだが、二種類しかなかったスイッチから、世界が大きく広がったような、そんな気持ちがした。
健太がナミヨンに着いたときそうしていたように、ぼくは常夜灯の一室を、確認するように、ゆっくりと目で追った。
「悪いけど、点けてくれないか。ウィスキーの瓶は暗いと見づらいんだよ」
健太に言われて我に返り、点灯ボタンを押した。ピッと音が鳴って、部屋が明るくなる。ずっとこの日まで、お役御免を被っていた音だった。
「ありがと」
「ったく、どうしたら人の家のリモコンを持って帰るんだよ」
「なんだったっけなー。もう忘れちった。二日酔いだったんだろ」
「ふざけんな」
リモコンで健太を小突いたとき、ふと、健太がここに来た経緯を思い出した。
「ははは。バレたか」
尋ねる前に、健太が口を開いた。
「ほんとはな、最初から来るつもりだったんだ」
昔と同じ、照れたときに髪をかきむしる仕草で健太はそう続けた。
「前もって言ってくれればいいのに」
「まあ、そうだよな」
「うん」
「たださ」
緊張がほぐれたのか、すっかり壁に背をもたれた健太は、溶けて小さくなった氷ごと、ウィスキーを飲み干した。彼の言葉がまとまるまで、ぼくも同じように飲み進めた。少し酔いが進んだときのウィスキーは、ほんのり、甘い感じがする。
「俺が来るってわかったら、お前はどこかアクセスのいい店を予約して、今よりは少しこぎれいな身なりで、俺の前に現れるだろ」
「まあ、そりゃあ、そうだね。こぎれいかどうかはともかく」
健太の言うとおりだ。少なくともどこかのバーにいたし、このジャージを羽織ることもなかっただろう。
「そうじゃなくて、俺は……子供同士で、お前に会いたかったんだよ。この六畳の部屋で、あぐらをかいて、このグラスでアイラ・モルトを飲みたかったんだ。俺のわがままってやつだ。迷惑かけてすまなかった」
「……ううん、わかるよ」
「ありがとう。今日会えてよかったよ」
健太はそう言うと、ぐすん、と鼻をすすった。照れ隠しのグラスの向こうで、涙のひとしずくが頬を伝うのが見えた。俺も涙もろくなったな、とYシャツの袖でそれを拭うと、健太はにっこりと笑った。
三
パズルのピースをはめるように、黄ばんだリモコンを同じように黄ばんだ台座にはめ込むと、ぼくらはまたナミヨンに繰り出した。時刻は深夜二時、向かう先は、入魂ラーメンだ。
「さあ、部屋のリモコンも戻ったんだ。弁償におびえず、あの部屋をおさらばできるぞ」
「リモコンの弁償なんか気にしてたわけじゃないけどな」
「はっはっは」
上機嫌になった健太は、また道すがら石ころを見つけてきて、機嫌良く足を進める。不規則になったリズムがナミヨンの夜に溶けていく。石ころのなかから目覚めたように、昔とよく似た夏の匂いが、ほんのりと夜風に蘇る。
「これからどうする?」
健太が振り向きざまに尋ねる。
「そうだな……大金持ちになる!」
今夜だけはなぜかほんとうになれるような気がして、ぼくは笑いながら答えた。
「最高だな。それから?」
「うーん、もうちょっとマシなところに引っ越す!」
「おーきた! いいねえ」
月明かりに照らされたナミヨンの並木が、応えるようにゆらゆらと揺れた。どんな遠くにでも引っ越せるような気がした。あのリモコンを手にしたからだ。ひとつのリモコンが、時の澱に沈んでいた、十代のぼくを"灯した"。
酒の回った視界を、別れの気配を帯びた街が、ゆったりと過ぎていく。この魔法が解ける前に、ここを去ろう。そのうちに、ぼくはナミヨンという名前すら、忘れてしまうだろう。
それから、それから、と健太が続ける。とりとめもない夢をぼくは答える。入魂ラーメンにたどり着くまで、ぼくらはそれを続けた。
店に着くと、なじみの券売機で、ぼくらは大盛り塩ラーメンを頼んだ。もう大盛りは食べられないかもしれないけれど、今夜の食券は、大盛り塩ラーメンでなければならなかった。
座ってテレビを見ていた店主が、億劫そうに麺をゆでるのが見える。相変わらずまずそうだ。でも、それでいい。
腹一杯ラーメンを食おう。
潰れるくらい酒を飲もう。
そして明日から、ぼくは、大人として歩き出すのだ。