折りたたみ傘
その日は、町中が全て衰亡してしまったかのような、恐ろしく静かな嵐の日だった。地面に叩き付けられる雨の音、光からちょっと遅れて轟く雷鳴、身を引き裂かんばかりに吹く風の悲鳴…普段とは桁違いに自然が鳴動しているというのに、街はとても静かで、閑散としていた。
それは、夏がこれから盛りを迎えようという、七月の終わりの、午後だった。私は、今にも壊れそうな折りたたみ傘に身を潜め、家へ家へと歩んだ。アスファルトの上に溜まる水たまりを足で蹴り鬱憤を晴らそうとしたが、よれよれのズボンが濡れて、むしろ余計に腹が立った。
模試のあとの学校帰り。心中の敗北感を、眼前の光景が余計に増幅させた。雨が、これからもずっと、それこそこの地球の終わりの日まで、ずっと降り続けるような気がした。
そんなふうに、無力感に打ちのめされていたときだった。私は一人の老婆が、手提げ鞄を抱えながら、街角を曲がろうとするのを見つけた。折れ曲がった背を容赦ない雨に打たれ、今にも倒れそうな様子だった。何かできるかと思って、老婆に近付いた。しかし近付いたものの、いざ近くに寄ると、なかなか声をかけられるものでもなかった。青年と老婆の境にはとんでもない隔たりがあるように感じられるし、何より模試のあとというのは、全てが億劫に思えるものだ。それに、傘を差し出そうものなら、自分が濡れてしまう。
青年と老婆は、無言で、隣り合って街を進んだ。
私は葛藤と戦っていた。電車で席を譲るときと同じ。募金をするときと同じ。一歩進んでしまえばもう簡単であるというのに、その一歩を踏み出せずに、戸惑ってばかりいる。良心の呵責と相対する、身体の重さ。非常に厄介で、複雑な心境だった。
しかし、ある意外な出来事が、私にその一歩を歩ませた。雨合羽を纏った親子連れが、二人の傍らを通り過ぎたのだ。その年少者は、親の手を取り、赤い長靴を水たまりに突っ込みながら、街をまっすぐ進んでいた。全く臆する様子のない、無垢な子供。誰にでもある、過去の姿だった。私にもある、そう思うと、なんだかひどく懐かしく感じられた。同時に、その懐かしさが、ひどく憂いに満ちたもののように思えた。
駄目だ、と私は自分に言った。中学時代の反抗期、大人と違うんだ、と誇っていたものを、今、私は失おうとしていた。そう、他でもない。素直さだった。
「大丈夫ですか?」
いつしか私は、老婆に声をかけていた。老婆は驚いた様子で、うっすらと開いた目を私に向けた。不思議なものでも見るような目だった。そして、それは私には、何かを哀訴するような目にも見えた。
「傘、どうぞ。鞄もお持ちしますよ。」
私はそっと優しく、はっきりと言った。その言葉を言い切ると、私はなんだかすっきりした。果たさなければならない使命を、果たしたかのように。
「ああ、ありがとうね。でも、お兄さんが…」
老婆が掠れ声で言った。小さく微笑んで。
「大丈夫です。」
老婆の言葉を最後まで聞けば、気まずい空気になりかねないと思い、私は早めに言った。
「あら、本当に?じゃあ、お願いしようかしら。」
老婆はそう言うと、傘を受け取ってくれた。私は鞄を預かると、右肩に学生鞄をかけて、空いた手で鞄を持った。意外にも水を弾く材質のようで、私が持つことに何ら問題はなかった。それには微かにも温もりがあった。嵐の中、よろよろと歩く彼女は当初、まるで生と死との瀬戸際の、恐ろしく不安定なところにいる存在に見えたので、私はその温もりを感じた途端、なんだかほっとしたような、不思議な感覚に襲われた。かじかんだ指先が少しずつ和らぎ、乾ききった心が潤うような気がした。
「ありがとうね。本当にありがとう。」
老婆は駅への道中、たびたびそう言った。私はそのたびなんだか照れくさいような、むず痒い心地がして、ポリポリと頭を掻いた。その微かな音は、雨音と共に私の中でこだまして、街の静けさをひしひしと訴えた。
そのやりとりを除いて、私達は一切話さなかった。凄い雨ですね、などと口にしようとはしたものの、それは口に出る前になぜか止まってしまった。なぜそんなことを言うのだ、と思い留めてしまった。私は、赤の他人との、つかの間の縁というものに慣れていなかったので、先ほどの憤りも、無力感も、何もかも忘れてじっとしていた。
そうしているうちに、駅に着いた。老婆に続いてエスカレーターに乗った。本当は横の裏道を通った方が早いのだけれど、それを言うのも気まずかったし、このまま別れたくないような気もした。
エスカレーターに乗っているうちに、老婆は折りたたみ傘を丁寧に折りたたみ、私が使う前よりもきれいに整えた。しわがれた手の器用さには、いささか驚かされた。
雨は相変わらず降っていたが、学校を出る瞬間ほどの、豪雨ではなかった。もっとも、それは私がそう思っただけかもしれない。
私達は二階に着いた。老婆は、空いた駅の壁際で止まると、私に振り向いた。そして深々と頭を下げて、傘を差し出した。なんだか片手で受け取るのがはばかられたので、私は老婆の鞄を手首にかけると、両手でそっと受け取った。なんだかくすぐったかった。
続いて私が鞄を差し出した。老婆は当然それを受け取ったのだが、傘を差し出してからそれを受け取るまで、一度も頭を上げなかった。
「ありがとうございました。助かりました。」
老婆は何度も頭を下げた。手をすりあわせてまで。困惑。そのときの感情を説明できる語は私はこれしか知らない。赤の他人から、これだけ感謝されるのは、この歳ながら初めてだったのだ。
「いいえ。たいしたことでは。」
私も老婆に倣って、頭を下げた。今思い返せば微笑ましい。きっとあのとき老婆も、私が感じたのと同じ困惑を感じたのではなかろうか。
そして最後、老婆は、失礼します、と言って去ろうとした。私はその瞬間、あまりにも物足りないような、名残惜しいような気がして、
「お待ちください。お名前は?」
と問うた。今も、なぜそんなことを聞いたのか、わかってはいない。
「あ、申し遅れました。私は永村と申します。お兄さんは?」
「僕の名前は、城谷です。では。」
言い終えると、私達は再び頭を下げた。そのあと老婆は、ゆっくりと人混みの中へ消えていった。私はまたエスカレーターを降りて、帰路を歩んだ。
そうして傘をさして、私はあることに気付いた。先ほどの鬱憤も、対象のない不平不満も、何もかも消えているのだ。心の中にあるのは、いいことをしたあとの、何とも言えない温かい心地だけだった。折りたたみ傘には、やはり温もりがあった。
雨は、もう静まってきて、雨宿りをしていた人々が街に姿を現し始めた。少しずつ、だが確実に賑わいが戻ってきた。
街の喧噪を背中に、私は家路を進んだ。
「ありがとう、か…」
私はつぶやいた。それはその日、私の中でこだました、最後の音だった。