イチゴ・オレ
喉が渇いたとき、自動販売機が並んでいるのを見つけると、私は決まって、そこに紙パックがないか探す。陳列棚に薄桃色をとらえたら、迷いなく、そのボタンを押す。
紙パックの、イチゴ・オレ
ストローを差し込んでそれを飲み込むと、なつかしい匂いが口のずっと奥のほうから、全身につたっていくのを感じる。加工飲料特有のツンとした感じが、大学生にもなると少しうっとうしい。それでも私はやはり、イチゴ・オレのボタンを押す。
紙パックの手触りも、ストローの感覚も、小学生のときから変わっていない。私はそれを飲むと決まって、自転車を漕ぎながら寂しさに耐えていた、中学時代の夏の日を思い出す。感傷にひたるほどではないが、一瞬でもむかしの出来事が脳裏に浮かんでくるとき、「今」からちょっとだけ、私は遠ざかる。
小学校のとき、私はじいちゃんとよくプールに行った。さして運動もできず、体力もなかった私に、彼は毎週、水泳を教えてくれた。私は体育の授業が大嫌いだったけれど、じいちゃんとプールに行くのは好きだった。お昼過ぎだったろうか、じいちゃんはいつも古い自転車でやってきた。水着とタオルの入った青いバッグを掴み取り、私は胸を躍らせて、それについていった。下町の面影が残る町を、じいちゃんのペースに合わせて小さな自転車で走った。
下町の面影が残る町の通りを抜け、人にぶつからないかひやひやしながら駅前を過ぎる。彼は八十代になろうとしていたが、ペダルを漕ぐ足は、幼い私の目にはたくましく映った。時々彼は、たんを道に吐き捨てた。私はそれを避けながら自転車を漕いだ。思い返すだけで汚い。でも、私がじいちゃんについて嫌いだったのは、その点くらいだった。
曇っていた日もあったのだろうが、今思い返すと、その頭上には都会のビルに四角く切り取られた青空ばかりが浮かぶ。曇っていた日はきっと空を見なかったのだろう。うだるような暑さを乗り越えてプールにたどり着くと、エントランスに入る。きつい冷房の風は汗ばんだ服をつたって、まだ百四十センチにもならない私の身体を震えさせた。じいちゃんはどうだったのだろう。じいちゃんが受付で小銭を払い、たまにお釣りをくれることしか、私は気にかけていなかった。ちょっとずつ近くなっていたオトナの背中も、古い衣の下で震えていたのかもしれない。
塩素の匂いだとはあのころは知らなかった。鼻をくすぐるプールの匂いがわずかに漂う更衣室、そこに百円玉のロッカーがある。お金が返ってくるタイプだ。毎回彼は私に、百円硬貨をくれる。衣服をロッカーに素早く放り込むと、私はプールに走って行く。
小学校教師だったというじいちゃん―彼が教鞭を執っている姿は一度も見たことがなかったが、今思い返せば、やはり水泳を教えるのも上手だった。私はクロールを覚えはじめていた。二十五メートルの手前で力尽きる私を、いつも手前にいて、拾い上げてくれた。「もうちょっとだ」彼はいつもそう言って、笑っていた。怒ることも、不機嫌になることもなかった。孫の成長を見守る典型的な"おじいちゃん"だった。
結局泳ぎ切れない私は、夕方になるとまたじいちゃんに連れられて帰った。シャワーを浴び、更衣室で着替えると、プールの匂いはなぜかほの甘いものに変わり、汗でじとじとしていたはずの衣服は心地よい温もりで全身を包んでくれる。泳げなかった悔しさはだいたい、そこで忘れてしまった。
ロッカーから出てきた百円玉は、返す必要はなかった。私は彼とロビーに出ると、彼がよくわからない円筒に腕をツッコんでいるあいだ、そのお金でイチゴ・オレを買った。最近届くようになった位置にそのボタンはあって、紙パックを飲む私は成長したつもりで上機嫌だった。硬貨を入れて、落ちてきたものを取る―その経済活動を自分ひとりでしていることに、高まりを覚えていたのもあるかもしれない。ロビーの窓から、私がさっきまでいたプールで、中高生が二十五メートルを悠々と泳ぎ切るのを、まるでサーカスであるかのように見つめていたものだ。じいちゃんはそんな私の背中を、どんな気持ちで追っていたのだろうか。それがわかるにはまだきっと、四十年以上、かかる。
イチゴ・オレを飲み終えるころには、口のなかにあったプールの匂いは、甘いイチゴのそれに置き換わっていた。耳も髪の毛もほどよく乾いて、じいちゃんも帰る支度を済ませている。ああ、じいちゃんと過ごす時間は終わってしまうんだな、と私はいつもそのとき思った。勉強をサボったり、ふざけていたりすると怒ってくる母さんのもとに、私は帰らなければならない。わがままな自由が終わってしまうのが、私は寂しかった。傾きはじめた夏の陽に照らされた、じいちゃんの背中が惜しかった。思い返せば、帰り道の彼の自転車は、少しばかりぶれていたように思う。あのときは、気づけなかった。
それからしばらくして、私は中学二年生になった。クロールは五十メートル泳げるようになったし、じいちゃんが腕をツッコんでいた円筒も血圧計だとわかるようになった。更衣室でもシャワー室でも、じいちゃんとは一歩、距離ができた。それでもじいちゃんとプールに行ったのは、平泳ぎの練習に加え、弟の練習に付き添うためだった。目立った反抗期はなかったけれど、あのとき私はたしかに、家族と距離があったと思う。自転車をわざと早く漕いでじいちゃんと間を空けたこともあったし、帰り道のじいちゃんの背中より、別れ際にくれるお小遣いのほうに、関心を寄せていたりもした。才児というわけではなかったけれど、それなりに頭は働いたので、じいちゃんに媚びるのは得意だった。
年の離れた弟は、私の隣の子供用プールでバタ足を練習していた。大人の区画の隣に設けられた、十メートルの小さな空間。もうとっくの昔に卒業したその場所で、彼はビート板に必死でつかまり、八メートルを泳いでいた。ひとりで平泳ぎを練習しながら、私はじいちゃんに可愛がられている弟に対して、ひそかに嫉妬したりした。私に施されていたいろいろなものを弟が根こそぎ奪ってしまうのではないか、とも疑った。交代で弟の面倒を見ていたが、私が弟にかける言葉は、じいちゃんより厳しく、いい加減だったと思う。私も毎回かけてもらったはずの言葉を、つきっきりで弟にかけるじいちゃんのことを、しだいに疎むようにもなった。
バチャバチャバチャ……
弟のバタ足はぎこちない。水を跳ねるだけで、なかなか前に進まない。そのうちに息が尽きて、足をついてしまう。私は弟とうんざりしながらまた元のプールサイドに戻る。こんなものにずっと付き合っていられるじいちゃんのことが、不思議でしかたがなかった。
そんななかでも、プールを上がったときの感覚だけは変わらなかった。塩酸の匂いと交わるイチゴ・オレの刺激は、以前ほどは強くはないが、それでも特別なままだった。ロッカーから出てきた弟の百円玉で、アイスクリームを買ってやったりもした。自販機のスイッチを押すことや、百円玉の経済活動にはもう感動はしなかったが、私なりの自由の意識は変わらずそこにあった。
家に帰ると、じいちゃんはそろそろ引退かなあ、とたびたびつぶやいていた。プールに向かうまでの自転車の漕ぎ方や、弟の監督の交代の頻度が、それを物語っていた。古い自転車が家に着くのは少しずつ遅れるようになった。弟はかつての私のようにじいちゃんによくなついていたので、「またいこうね」とせがみ、じいちゃんも「そうだなあ」と笑っていた。
八月下旬のある日、ついに弟は十メートルを泳げるようになった。練習も後半に差し掛かったときのことだった。
バタバタバタ……
水しぶきはおとなしくなり、弟のスピードは格段に上昇していた。じいちゃんとプールに行かない日も、学校で練習していたのだ。弟のビート板は勢いよく水を切り、あっという間に反対側のプールサイドに接触した。
「よーし。やったねえ!」
じいちゃんはとびきりの笑顔で弟を迎えた。中学生の私も、このときばかりは喜んだ。
「ふう、じゃあ、上がろう。ひと休みだ」
じいちゃんはにっこり笑って、私たちをプールのそばにあるベンチに座らせた。満足げな様子だった。
「もう五級受かるよ」
私は弟の成果を賞賛してそう言った。弟の学校では水泳の検定があって、バタ足で泳ぐことができれば五級に合格することができた。
「うん。来週受ける」
と弟は誇らしげに返した。そのやりとりをじいちゃんは満足げに見つめると、そのあとトイレに歩いて行った。私はそのとき、急に寂しくなった。これからというものへの、重い憂いが私の胸を包んだ。
「今日はこれで終わりかな」
そんな私に気づくこともなく、弟は達成感に満ちた様子でそうつぶやいた。家に帰る時間まで、二十分を切っていた。
「……もう一回やろう」「え、なんで」
怪訝な表情の弟に、私はどう答えてよいかわからなかった。さりとてそのまま口を閉ざしていられるほど私は大人にもなっていなかったので、ごまかし笑いを浮かべながら、軽い口調でこう言った。
「最後だし、な」
「……え?」
弟は最初、私がなにを言っているのかわからない様子だったが、しばらくするとその表情に深い悲嘆の情が浮かびはじめた。
「え、あ……え……」
狼狽する彼の肩を私は優しく叩いた。私たちはしっかりと記憶できるように、プールの壁の模様や、長さや、水の青さを眺めた。よたよたと歩くじいちゃんがトイレから戻ってくると、私たちは走って行って、もうちょっと泳ぎたい、と用意できる限りの笑みを浮かべた。じいちゃんはいつもと変わらない笑顔で、大きく頷いてくれた。
バタバタバタ……
弟の足が弾む。じいちゃんが前にいて、弟をリードする。私は弟のうしろを泳いでいく。
バタバタバタ……バタバタバタ……
涙は出なかったし、言葉にはなにも出さなかったが、私たちはこの時間の切なさを前に、将来訪れるであろうもっと大きなものへの覚悟を、幼いながらに固めようと努力していた。反抗期の中学生とバタ足ができるようになったばかりの小学生のあいだに、残酷なまでに鮮明な意思疎通があった。反対側のプールサイドに到着してからも、弟はさらにもう一回、とじいちゃんにせがんだ。弟は、足の力が尽きるまで、必死でビート板を握りしめ、じいちゃんを追いかけた。
リードしてくれるじいちゃんは、健康そのものの様子だった。周りの人が注目するほど大きな声で弟を励まし、泳ぎ切るとしわくちゃで優しい笑みを浮かべた。一昨年より、去年より、少し弱ったじいちゃんだったが、精一杯のじいちゃんだった。
その日の練習は、いつもより十分ほど長引いた。プライドの高い弟は、プールを出てからもしばらくゴーグルを取らなかった。シャワールームでも、更衣室でも、私と弟は言葉少なだった。「疲れたんだろう」、とじいちゃんは、ロッカーから出てくる百円玉に次いで、もう百円ずつ、私たちにくれた。私たちは飲み物とアイスクリームを買いながら、じいちゃんが血圧計に腕をツッコむのを見つめていた。ひとりの人間の喪失の予感は、そのときの私たちの語彙で形容できるほど軽いものではなく、いつもじいちゃんをからかったりして騒いでいた私たちは、そのときただひたすら、黙ってうつむいていた。せっかく買ってもらった大好きなアイスクリームを、私はうまく味わうことができなかった。ロッカールームで黙っていた私たちが欲しかったのは、こんなものじゃなかった。もっと、遠い、無謀なものだった。その日はじめて、イチゴ・オレの味をきついと感じた。じいちゃんが買ってくれた、最後のイチゴ・オレだった。
私たちの予想通り、じいちゃんは次の年、プールに行けるほど元気ではなくなった。私たちの家に来る頻度も減り、古い自転車は杖、車いすへと変わっていった。私も弟も、それからもう二度とあのプールに足を運ぶことはなかった。高校、大学に進学し、充実した毎日を過ごしているうちに、じいちゃんにこちらから会いに行くこともなくなった。じいちゃんの訃報を聞いたのは、じいちゃんに最後に会ってから四ヶ月近く経っていた、サークルの合宿のときだった。
弟はその次の年に高校へ進学したが、わけのわからぬ遺書を書いて、突然、自殺した。享年十六歳。私はこれについてはまだ書き綴る勇気がない。両親は私が大学生になってから、急に私を叱らなくなった。私は大学近くのアパートに引っ越して、こうして片手間に文章を書いたりしながら、哲学を学んでいる。
ひとりの人間が死ぬとき、私たちは葬式に集い、故人がいなくなったことを嘆く。大きなお別れだ。でも、その生命が失われるよりもっと前のどこかで、少しずつではあるが、私たちはきっと、もっと大事な別離を経験しているはずなのだ。
私は大学で紙パックの自販機を見つけるたび、イチゴ・オレを探し、そのスイッチを押す。加工された飲料特有のツンとした感じが、大学生にもなると少しうっとうしい。百円硬貨は、自分の財布から。気づかないうちにじいちゃんに受け取った百円玉を、めぐりめぐって使っているかもしれない、なんて、馬鹿なことを考えながら。
あの日のプールの帰り道、私は寂しくてたまらなかった。いま、イチゴ・オレを飲む私は、どこかで切実にひとりぼっちだ。それを噛みしめる勇気がないときは、気分を無理矢理高めて、友だちと話しにいったりもする。
じいちゃんが買ってくれたイチゴ・オレの数を、そろそろ私は越えるだろうか。それでもまだ、そのストローに唇を当てるたび、特別だった匂いとともに、あの日の光景にかえるような気がするのだ。
必死にしがみついて水のなかを進んでいた弟と、そのうしろを追った私……あの日の私たちのゴールは、ほんとうはどこにあったのだろう。いつも笑っていたじいちゃんは、なにを見つめていたのだろう。
バタバタバタ……バタバタバタ……